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あまり知られていないであろう、ソ連に送られたP-47について。
fc2ブログからこちらに移すにあたり、間違った記述、誤字脱字等を修正しました。
それと海軍での運用などの情報を追加しています。
P-47は米リパブリック社の開発した戦闘機である。リパブリックの前身はセバスキー社で、これは第一次世界大戦にてロシアのエースパイロットであったアレクサンドル・セーヴェルスキイ(英語読みすればアレキサンダー・セバスキーである)が設立したものだった。
そしてP-47を設計したのは、セバスキー社に勤務していたグルジア人のアレクサンドル・カールトヴェリだった。
そのような生い立ちの人物達が携った機体を受け取ったソ連は、一体どのような気分であったか。少しばかり気になるところではあるが……まぁ案外何も感じていなかったかもしれない。
どうでもよい話はこれくらいにして、本題に入ろう。
1943年半ば、ソ連の上層部はP-47Bに興味を示し、この機種の調査目的で機体の提供を要求した。それに応じた米国は、3機のP-47D-10-RE (※1) ―シリアル「42-75201」, 「42-75202」, 「42-75203」を用意した。これらの機体はベーリング海峡の長い道のりを飛ぶ事になるので、ラジオコンパスを機体に後付けしていたという。
この3機をモスクワまで運ぶべく、ソ連の第1空輸航空師団 (1 PAD, 原文: 1st Ferry Air Division) のD. ChulanovとI. Burmistrov、そしてA. Bochkovの三名が選出された。43年11月、彼らはアラスカ州中央部に位置するフェアバンクスで訓練を開始した。20回以上の飛行訓練を行い、彼らは異国の戦闘機P-47の飛行に習熟した。
11月16日、3機はLadd飛行場からノーム (Nome) へと移動。1944年2月15日、マダガンの800キロ南にあるアヤン湾へ到着した。飛行は吹雪の為に延期した。そのため彼らは想定されていた正規ルートを離れ、代替ルートのマガダンを通過した。3月20日、3機のP-47Bたちは無事モスクワ中心部の飛行場に降り立った。
うち2機は44年4月から5月にかけてテストが行われ、3機目は分解され構造の調査が行われた。
※1:末尾の”RE”は生産工場を示すもので、ファーミンデール工場製である。
まず試験飛行であるが、これはソ連のテストパイロットを大いに失望させたそうだ。技術者でありながら、実戦での撃墜戦果を持つ稀有なパイロットでもあるMark Lazarevic Gallay (Марк Лазаревич Галлай) は次のように述べた。
『最初の数分間の飛行で私は理解した、こいつは戦闘機ではない!飛行は安定しており、広々として快適なコクピットを持っていたが、この≪Thunderbolt≫の水平面そして特に垂直面の機動性は不満足なものであった。加速はゆっくりとしたものであり、重い為に強い慣性(?)を受けた。(訳不明、原文:Самолет медленно разгонялся - сказывалась инерция тяжелой машины.) ≪Thunderbolt≫は急激な機動を行わない、単純な経路を飛ぶのには良い機体だ。だがそれは戦闘機としては十分ではない。』
他にも『テストによれば、操縦が容易であり離着陸が安定しているとしながらも、過大なロール安定性と方向安定性が悪い事を指摘した』と書かれたものもあった。
P-47の大きな利点は、操縦が容易であった事だった。戦中の平均的なパイロットでも楽に操縦出来るということであり、ソ連の一つの評価ポイントとしてよく上げられるものだ。コクピットについても、広く快適であり、効率的な機器の配置が行われていたとしている。
高高度性能も評価している。主に高高度における高速性 (高度8,500 mで661 km/hを記録) や、11,800 mというYak-9, La-5FNといったソ連主力戦闘機らを遥かに上回る実用運用限界高度などだ。
また、増槽を装着する事によって2,300 kmまで飛べた事も良い点として挙げているようだ。
非常に強力な8丁の12.7 mm機銃を有し、爆弾搭載量は1,135 kgにも達した。これはソ連の主力前線爆撃機 ペトリャコフ Pe-2の搭載量を大きく上回る値だった。
水平及び垂直面においての操縦は他の機体より大きく劣る。巨体とその重量により動作は緩慢であった。よって加速も低いものだった。
続いてソ連のエンジニア達の評価であるが、こちらはパイロットのものとは異なっていた。P-47はその見た目と裏腹に空力に優れており、その空気抵抗係数(Cx)はドイツの主力戦闘機であるBf109GやFw190Aよりも小さい物だった。(ここ訳が怪しいかも)
だが、彼らの主な興味は機体自身にではなく、機体に装備されていたターボチャージャーにあった。
ソ連ではスホーイのSu-1・Su-3、ミコヤン・グレヴィッチのI-221・222・224・225などのターボ搭載戦闘機を試作、また既存のI-16, La-5などにもTK-2, TK-3, TK-300等のターボチャージャーを試験機に搭載し、実用化に向け開発を進めていた。しかし、どれとして実用化されたものはなかった。そのような中で完成品が送られて来たとなると、興味を示すのも当然だろう。
機体はBNT NCAP(Bureau of the People's Commissariat of new technology aircraft industry, どんなのか分からないので訳丸投げ)にて調査された。BNTの専門家は技術的な詳細を全て公開した。エンジニアはソ連の航空機産業の技術レベルが米国より劣っている事を指摘し、戦闘機の部品や製造品質、組み立て及び製造方法などを学んだ。
ソ連のパイロットとエンジニアによるこれらの内容は、P-47D-10をもとにしている事を留意しなければならない。レンドリースによって到着したP-47D-22とP-47D-27は、P-47D-10よりさらに強力なR-2800-59を搭載していたし、性能もそれまでより向上していた。しかしこれらのモデルがソ連に到着し始めたのは、大戦も終わりに近づきつつある時期であった。
ソ連へのP-47供給数は第4位であった。William Green氏の調査によると、203機が米国から送られ、うち196機がソ連に到着したという。(この数字は世傑Il-2 P.20掲載の情報とは食い違っているが……) これらのモデルは最初にやってきた3機のD-10と同じファーミンデール工場製で、P-47D-22-REとP-47D-27-REであった。
D-22とD-27はそれぞれ約100機ずつであったという。また、これらの殆どは44年中に到着しており、45年に到着したのは5機のみとされている。
P-47は前線の戦闘で使用されることは殆ど無く、多くは主要都市の高高度防空や後方で練習機として割り当てられたという。米国の誇る名戦闘機の一つであるP-47は、何故前線での主力として運用されなかったのだろうか?
それはP-47の3つの長所を見ると何となく分かるかもしれない。
まず「高い高高度性能」だが、独ソの空の戦いの多くは主に高度6,000 m以下で行われており、都市防空や高高度偵察機の迎撃などの場面を除けば、高高度性能は不要であった。P-47が機内に抱えていた高高度用の装備は、前線の低高度戦では死荷重となってしまった。
MiG-3と同じ末路を辿ってしまったような形だが、機体としても不本意だろう。
次に「長大な航続距離」。米国は44年から昼間での重爆撃機に対する長距離護衛等を行ったが、ソ連ではそのような事は大々的には行っていない。ベルリンなどの都市や後方の各種重要拠点に対する長距離爆撃は行っていたが、英国と同じ夜間に爆撃機のみで行うスタイルであった。つまるところ、いくら遠くまで飛べたところで、護衛する対象がソ連には居なかったのである。 ("大々的には"と書いた通り0ではない)
一応ヤコヴレフでYak-9DDという長距離護衛戦闘機型を開発・生産していたが、これの生産数は399機と、数千機単位で生産された他の主生産型に比べ遥かに少ない。これだけで事足りたのであろう。
そして最後に「防弾性と対地攻撃能力」だが、知っての通りソ連では対地攻撃専門の襲撃機―イリューシン Il-2が大量に配備されていた。P-47の爆弾搭載能力は双発爆撃機のPe-2をも凌ぎ、防弾性も戦闘機としては優れているが、対地攻撃に特化している訳ではない。武装の12.7 mm機銃の多連装は強力だが、装甲化された目標に通用する物ではない。 (勿論ドイツ地上軍相手に暴れまわったように、ソフトスキンには有効だが)
既に強力な対地攻撃機を有するソ連にとっては見劣りするものであった。
中低高度を主戦場とした制空戦闘機としての能力は不十分と判断され、長距離護衛機する対象は無く、対地攻撃機としても力不足。いくら名機でも、この有り様ではソ連空軍も持て余すだろう。
また、高高度性能の高さから防空軍での運用も考えられたが、上昇性能はあまり高くなく、同時期に到着し始めたSpitfire Mk.IXの方がより迎撃機向きであった為、防空軍でも殆ど運用されていないらしい。つまり高高度迎撃機としての居場所も無かった事となる。
空軍で不要とされた(実際にそう書かれていたわけでは無いが)P-47だが、海軍航空隊には居場所があったそうだ。P-47の航続距離と搭載能力に目を付け、「沿岸及び海上目標の破壊をできる戦闘爆撃機として使えるのではないか」と考え、強い興味を持っていたのだ。
海軍航空隊の司令部はP-47D-10-REの飛行試験の結果を再びチェックする事を決定した。
1944年10月に12機のP-47D-22が到着、そのうちの1機はVaengaで試験を受けた。ソ連海軍は試験部門を持っていなかったので、前線での経験を持つ第255戦闘航空連隊 (以下255 IAP) のパイロットによって試験飛行が行われた。
試験は44年10月29日から11月5日にかけて行われた。またこの時北極圏でも運用できるかも検討されたらしい。試験の期間は短いものであったが、多くの事が確認された。
- 過積載状態によるコンクリート及び不整地での離陸及び着陸
- 各種オプション搭載時の負荷調査(?)
・FAB-250 x2 (翼下パイロンへの搭載)
・FAB-250 x3 (翼下パイロンに2つ、胴体下部ハードポイントに1つ)
・FAB-500 x2 (翼下?詳細が書かれていなかった)
- 急降下爆撃
- 目標から150~170m手前での高度20~25mによる反跳爆撃
試験の結果は良好であった。
機体は2個の250kg爆弾を搭載し、Vaenga飛行場から離陸した。高度3000mから50度の角度で降下し、爆弾を投下した。照準は機銃用の照準器で行われた。また、FAB-250 x3もしくはFAB-500 x2を搭載した状態での爆撃は、水平状態でのみ可能である事が分かった。
どうやらこの試験の結果、255 IAPはP-47を運用する事に決めたらしい。1944年11月13日、北方艦隊航空隊の司令は255 IAPをP-47D-22を装備する最初の飛行隊とするよう指示した。この時点で14機が到着していた。最終的に50機の運用が承認 (?) され、これらはソ連のどの部隊よりも長く運用されたという。またこの連隊は海軍航空隊で唯一完全武装したP-47を装備した連隊となった。
以下のサイトで255 IAPのP-47が確認できる(と言っても1枚だけだが)
http://sk16.ru/vvssf/album/
255 IAPのパイロットはP-47の習熟に苦労したと言われている。それまでの機動性に優れたP-39よりも非常に大きく重い。パイロットはこの機体について「まるで魚雷艇から戦艦に乗りかえたようだった」と答えている。
255 IAPの他にも、同北方艦隊の第2親衛戦闘機航空連隊(2 GvIAP-SF)に配備されており、これらはフィンランド-ノルウェー海岸線において対艦攻撃に従事した。戦果等についての情報は残されていない。
他にもバルト海艦隊の第15独立偵察航空連隊(15 ORAP-KBF)に配備され、バルト海での偵察任務に就いた。こちらも特に情報は残されていない。
戦争が終わった時、ソ連は188機のP-47を保有していたらしい。戦後の運用は今回の調査では分からなかったが、あまり長くは使われていなかったと思われる。
アメリカが誇る最優秀戦闘機の一つである、リパブリック P-47 サンダーボルト。当機がレンドリースでソ連に渡っていたことは国内では殆ど知られておらず、ソ連による評価や運用の話はなかなか興味深い内容だったのではないだろうか。 (筆者は知識欲を大いに満たすことができた)
異国の地でのあんまりな評価や地味な運用を見ると、いくらかばかり可哀そうな気持ちになるが、"物差しが違う"とはこういう事なのだろう。レンドリース・供与・購入等による「他国での運用」話は、やはりこういう所が面白く、オイシイなと思う。
【参考ページ】
"Тандерболты" в Советском Союзе|Авиация Второй мировой(露)
http://www.airpages.ru/uk/p47su.shtml
Republic P-47 Thunderbolt|Wikipedia(英)
https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_P-47_Thunderbolt#In_Soviet_service
"Тандерболты" в Советском Союзе (II)|Уголок неба(露)
http://www.airwar.ru/history/av2ww/soviet/p47-2/p47-2.html
255 ИАП ВВС СФ|SK16rus(露)
http://sk16.ru/255iap/index.shtml
Lend-Lease Soviet P-47|VVS AIR WAR(英)
https://vvsairwar.com/2016/08/08/first-blog-post/
【書籍(Kindle)】
Lend-Lease Fighter Aces of World War 2(英)
No.1629-1647
コメントをお書きください
キンギョ (土曜日, 14 9月 2019 00:34)
レンドリースされたP47の話、興味深かったです。ところで、pe-2の最大爆弾搭載量は1,6t( ただし急降下爆撃の時は爆弾倉に爆弾を搭載できなかったそうですが。)でP47の爆弾搭載量の1〜1,3tを上回っています。なので、文中の「P47の爆弾搭載量はpe-2を凌ぐ。」というのは間違いです。
リーリヤスキー (土曜日, 14 9月 2019 22:57)
お読み頂きありがとうございます。趣味で気ままに書いているものとはいえ、とても励みになります。質問や意見は調査等のモチベーションが急激に高まるので大歓迎です。
さて、本題の件ですが、コメントを頂いた時「ん?そういえば確かに……?」となりましたもので、小規模ながら再度調査と検討を行いました。
そもそもですが、件の「P-47の搭載量はPe-2を凌ぐ」という表現は、『Soviet Lend-Lease Fighter Aces of World War 2』にて掲載されているパイロットのコメントを元としておりました。
『‘The P-47 Thunderbolt is not a fighter. It is bigger and heavier than our standard frontal bomber (the Pe-2) and has a longer range. It carries more bombs and is more heavily armed.’ 』
■Mellinger, George. Soviet Lend-Lease Fighter Aces of World War 2 (Aircraft of the Aces) (Kindle の位置No.1637-1638). Bloomsbury Publishing. Kindle 版. より
また、記事をアップロードしてから新たに、Vladimir Kotelnikov氏の『Lend-Lease and Soviet Aviation in the Second World War』という書籍を手に入れたので、こちらの書籍のP-47の項も確認しましたところ、下記の通りの記述がありました。
『Finally, it had powerful armament (eight 12.7mm machine guns) and its bomb-carrying capacity totaled 1,135kg, which was greater than that of the Soviet Petlyakov Pe-2 two-engine bomber.』
■Lend-Lease and Soviet Aviation in the Second World War P.256より
こちらも同様に、Pe-2を名指しした上で、その積載量が勝っているとしていました。ソ連におけるP-47の具体的な爆弾搭載可能上限値も提示されています。 (コメントにて頂いた値よりいくらか小さい値ですね)
P-47の上限が1,135kg―約1.1tであるなら、これは1.6tより小さいので、おっしゃる通り大小関係が逆転しているので誤りとなります。
ここで一つの疑問があり、「Pe-2の1.6tという値はどういった状態でのものなのか?」というところです。Pe-2は大戦を通して幾多の改修が施され、エンジンも何度か換装されています。となると、搭載量は最初からこの値なのか?最終型の値なのか?どこから出た値なのだろうか?という事でPe-2の搭載量についていくつかサイトを当ってみました。
記憶では私もPe-2の搭載量は1.6tと認識しており、それを見た場所はどこかを考えると、Wikipediaであったのを思い出しました。日本語版を見てみたところ、確かに1.6tとの表記がありましたが、出典の記載はありませんでした。恐らく元になったであろう英語版を確認したところ、こちらも1.6t表記はありましたが、出典の記載もなく、その上要出典タグが2008年11月に付けられてからそのままとなっていました。
英語版WikipediaのExternal Linksや出典等をいくつか参照しましたが、下記の通り最大積載量は1.6tではなく1,000kgとなっていました。
『Normal bomb load is 600 kg. (1,320 lb.), but can be increased to a maximum of 1,000 kg. (2,200 lb.).』
◆Flight 10 February 1944 p142-144 "A Russian Dive Bomber" (2019/09/14アクセス)
https://www.flightglobal.com/pdfarchive/view/1944/1944%20-%200283.html
『uzbrojenie - 2 km SzKAS kal. 7,62 mm, 3 nkm UBT kal. 12,7 mm, 600-1000 kg bomb.』
◆Samolot bombowy PE-2FT (2019/09/14アクセス)
http://www.muzeumwp.pl/emwpaedia/samolot-bombowy-pe-2ft.php
1.6tの記述が見つからないので、調査時にお世話になっている個人的に信頼を置いている2つのサイトを参照しました。どちらも最大搭載量は1,000kgとされ、後者ではスペック一覧に年毎生産型もすべて同じ値でした。
◆Pe-2|Airwar.ru (2019/09/14アクセス)
http://www.airwar.ru/enc/bww2/pe2.html
◆Пе-2|Авиация Второй мировой (2019/09/14アクセス)
http://www.airpages.ru/ru/pe2.shtml
また、手元の書籍でPe-2に関する記述としては、以下のようなものもありました。
『基本的にはPB-100の胴体が活用されることとされたため爆弾倉は大型化されず、搭載可能な爆弾は二百五十キロ爆弾までで、このほか内翼下部の爆弾架に四百キロまでの爆弾を搭載して搭載量を一トンに引き上げた。』
■ソビエト航空戦 P.202より
他にもいくらか参照してみましたが、信頼のおけるソースでPe-2の最大搭載量を1.6tとしているものは見つからず、見つけられたものは全て1t (1,000kg)でした。
2019/9/13~9/14に行った調査の結論としましては、『Pe-2の最大爆弾搭載量は1tで、P-47は(少なくとも)1tを上回るものであり、P-47の搭載量はPe-2を凌ぐものである』としました。
今回の調査では見つけることが出来ませんでしたが、もし記載のあるソースについてご存じでしたら、お手数ですがコメント欄もしくはTwitter等にてお教えいただければ幸いです。
以上よろしくお願いいたします。
キンギョ (火曜日, 17 9月 2019 01:48)
コメント返しありがとうございます。いろいろ調べてみましたが、確かに pe-2の爆弾搭載量を600kg〜1000kgとしているものがほとんどでしたし、下記のPETLYAKOV PE-2’PESHKA’という本でもそのような記述がありました。問題の1,6tについてですが、いろいろ調べてみて、見つかった中で一番1,6tに近かったのは1500kgという値です。pe-2の爆弾倉を拡大して主脚も再設計したもので、おそらく試作のみです。
『the fully laden condition, with a single FBA-500carried on each of the two MDZ-40external bomb rack, increased to 1500kg』
PETLYAKOV PE-2 ‘PESHKA’ p124
また、この本にはこのpe-2のものと思われる写真が31ページに載っています。オイルクーラーの形や、機首がガラス張りであるところからして初期のpe-2のものだと思われますが、結果がどうだったのか分からず、そもそもモックアップしか作られていないような気もします。また、実用化されたものの中では pe-2 FTの1200kgという値が上記の「PETLYAKOV PE-2 ‘PESHKA’」に載っていて、ある程度の信憑性のある資料の中で最大です。pe-2 FTに搭載されたVK-106PF(1260hp)は、試作以外で pe-2に搭載されたエンジンの中で最強ですし、1tという値からそれほど外れていませんから、まあ納得のいく数字のような気もします。もしこれが本当なら、記事のP47の1,1tを上回ることになります。とはいえP-47の決定版 p47Nの爆弾搭載量はウィキペディアによると1300kgほどだそうなので、結局P47の爆弾搭載量の方が多きいことになりますね。他には、VK-107(1650hp)を搭載した試作機が幾つかありますが、どれも1t・1,5t・2t・3tのいずれかで1,6tという値は見つかりませんでした(PETLYAKOV PE-2 PESHKA より)結局、これが出所だろうなと結論ずけたのは、各爆弾倉や爆弾懸吊架の内訳です。これは、胴体内爆弾倉に100kg×4 外部爆弾懸吊架に250kg×4または500kg×2 エンジンナセル後部に100kg×2というものでかなり広く出回っている印象のある数字です。上記の「PETLYAKOV PE-2 ‘PESHKA’」にも書かれていますし、露語ウィキペディアにも書かれていてます。それで、上の内訳を普通に読むと、100×4+250×4+100×2=1600となり、これが1,6tの出所ではないかと思います。大戦機の情報は嘘も多いので、1tという数字よりも、写真による裏ずけも取れる爆弾搭載時の内訳の方を信用する人がいても不思議ではありませんし、付いている爆弾懸吊架を全部使うことは出来ないと思う人はあまりいないでしょう。推測ではありますが、1,6tの出所は上記の爆弾搭載量の内訳からだと思います。じゃあ、それを最初に広めたのは誰かというと、いうと、これまた推測ですがウィキペディアの英語版を書いた人じゃないかと。多くの人に間違った情報を広められて、かつそのことがわかりにくいものというと、ウィキペディアくらいしかないと思うんですよね…。実際 信憑性の高い pe-2のデータはどれも1t前後の爆弾搭載量としているわけですから。
リーリヤスキー (日曜日, 29 9月 2019 15:08)
数日前にコメントを投稿したつもりだったのですが、反映されていませんでした。すみません……。
あれからいくらか他の書籍・Webを眺めてみたのですが、こちらも400, 600, 1000という区切りの数字以外は見つかりませんでした。
強化型等も1,600kgもしくは1.6t表記が見つからない以上、やはり懸架量の合計からの勘違いが有力ですね。積載上限の話が無ければ、「機内(胴体+ナセル)に600kg、機外に最高1,000kgまでなら1,600kg積める」となるのも自然でしょうね。
このまま拡散され続けるのもよろしくないので、ひとまずは何かしらのソースになる書籍を入手して訂正をしたいですね……。