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さて、この記事にアクセスした貴方は、ミコヤンおよびグレヴィッチの手によって生まれた、MiG-3という機体をご存じだろうか。
『知ってる』『モチのロン』と、はい。恐らく知らなかったらそもそもこの記事にアクセスしないので当然でしょう。
それでは、MiG-3を延命―もしくは復活させるべく生み出された派生機達のことはご存知だろうか?
MiG-1およびMiG-3の派生機の数は、YakやLaと比べると少ないものの、片手では数えられない程度には計画機や試作機が存在していた。今回はそれらの中でも、MiG-3の復活を賭けて進められた2つのプロジェクトについて書いていこうと思う。
◆MiG-9―MiG-3空冷化計画
【開発】
1941年、ソ連で新たなエンジンが生まれようとしていた。その名を『M-82』と言い、これはシュヴェツォフが開発した空冷星形14気筒エンジンであった。
当時のソ連で最も強力な空冷エンジンの実用化の目途が立ちそうだという事で、1941年5月に航空産業人民委員部 (露:НКАП, 以下NKAP) は、戦闘機を手掛ける設計局―ポリカルポフ、ヤコヴレフ、ミコヤン・グレヴィッチ、スホーイらに対し、M-82Aを搭載する航空機の開発を指示した。事実上のM-82搭載戦闘機コンペである。
ミコヤンとグレヴィッチは早速MiG-3戦闘機の空冷化に着手し、早くも7月23日には『MiG-3 M-82A (露:МиГ-3 М-82А, 機種名と搭載エンジン名を記載する正式な名称)』もしくは『I-210 (露:И-210)』と呼ばれる機体の試作1号機 (Serial No.6501) を初飛行させるに至った。
MiG-3の空冷化に際して、いくつかの変更が加えられた。外見上で一番目立つ変更は、胴体径の拡大である。原型であるMiG-3の胴体幅が880 mmであったのに対し、M-82Aの直径は1,260 mmと、無視できないギャップがあった。他の空冷エンジンへの換装機でも多くが悩まされた問題だが、彼らはシンプルに胴体自体を太くすることでこれに対応した。また、この変更に合わせてキャノピーも拡大したため、パイロットの視界が改善されたという。
他の改修点としては、重心位置の調整のために主翼を100 mm後方に移動したこと (M-82エンジンが元々搭載していたAM-35Aより重かった)、全長が172 mm短くなったこと、そして武装がUBS 12.7 mm機銃3挺 (計600発)に変更されたことなどがあった。
さらに細かいところでは、コクピット内にもパイロットの意見が反映されたことで、ブレーキレバー, 射撃管制ボタン, 無線送信ボタンなどの形状も新規設計のものに置き換えられていたという。上記に記した変更点の多くは、MiG-3での反省点・不満点がフィードバックされた結果であった。
初飛行を終えた後の試験結果は、残念ながら開発者の思惑通りとはならず、期待外れのものとなった。最高速度は高度6,500 mで630 km/hと試算していたが、実際には高度5,000 mで540 km/hと、大きく劣るものとなった。これはエンジンカウルのパネル密閉性が悪く、飛行中に大きな空気抵抗を生んでしまったことが原因とされている。
この他にも、エンジン出力に見合う最適なプロペラを装備していなかったことを原因に挙げているものもあった。これについては、Yak-7 M-82の様な他のM-82換装機でも問題とされたもので、「エンジン換装によりプロペラの軸位置が下がること」と「主脚長に余裕がなく地面とのクリアランスが確保出来ないこと」が重なり発生したのである。
LaGG-3はM-82換装に際して、プロペラを3.0 mから3.2 m径のものに置き換えたが、Yak-7 M-82は元々3.0 mだったものが、先述の理由でさらに小さい2.8 mのものを装備せざるを得なかった。
残念ながら記事作成をするにあたっての調査では、MiG-9の搭載したプロペラの径を見つけられなかったのだが、少なくとも3.2 mのものは搭載していないと思われる [独自研究]。
【前生産型と実戦テスト】
試作2号機に続き、量産化に備えた前生産型が3機作られた。これらの製作は、1941年11月から12月にかけてに行われた。当時設計局はクイビシェフへ疎開中であり、作業は屋根もない屋外という困難な状況で行われたという。
試作型と前生産型の主な違いは下記の通り。
1942年6月、3機の前生産型 (Serial No. 6503, 6504, 6505) はカリーニン戦線に送り出され、防空軍第6戦闘航空軍団 (6 IAK-PVO, IAKは戦闘航空団、PVOは防空軍の略) 隷下の第34戦闘航空連隊 (34 IAP) で実戦テストを行う事となった。また、試作2号機 (Serial No. 6502)も第12戦闘航空連隊 (12 IAP)に送られた。また、この実戦テストに際して、空軍は制式名称として『MiG-9 (露:МиГ-9)』を与えた。
10月には一度MiG設計局に戻され、エンジンの換装を受けた。その後はまたカリーニン戦線に戻され、第7航空軍 (7 VA) 隷下の第260混成航空師団 (260 SAD) のもとで、1944年まで運用され続けたという。活躍等の話は見つけることが出来なかった為、詳細は不明である。
【MiG-9計画の結末】
前生産型を含め、努力の甲斐もむなしく、テストの結果は芳しいものではなかった。最高速度の記録は565 km/hで、これはMiG-3よりも27 km/h劣るものだった。
実戦テストの報告では、速度だけでなく運動性も劣ると評され、戦闘機としての評価は低かった。結果としてMiG-9は、同じくエンジンをM-82に換装したLa-5 (LaGG-3 M-82)やYak-7 M-82と比べても劣るものだと判断され、開発は中止された。
そしてこの『MiG-9』の名は、後の新型戦闘機にて再利用されることとなるのである。
◆MiG-3U―MiG-3強化計画
【開発】
1941年末、MiG-3は生産中止となり、残存機は徐々に前線から下げられていった。そのころ設計局では、MiG-3を全面的にリファインした機体、いわばMiG-3改の開発を進めていた。それが本項で紹介する『MiG-3U (露:МиГ-3У, Uは改良型を意味する語の頭文字から)』である。開発時の名称は『I-230 (露:И-230)』、局内では《D》(露:Д)とされていた。
MiG-3U計画は、設計変更を最小に抑えながらも性能を向上させていくということを主眼に置いており、シルエットは原型機と似通っているものの、各部に大小の手が加えられている。
最も大きな改修点は、冷却器回りである。胴体下部にあった主冷却器は、前進させつつより胴体に埋め込まれ、機首側面にあった滑油冷却器は、Yak-3を代表とする他のソ連機と同じく機体内に移動し、冷却空気の取り込み口として翼前縁付け根にインテークが設けられた。
MiG-3の武装は、元々ShKAS (7.62 mm機銃)が2挺とUBS (12.7 mm機銃)1挺であり、これは開戦後に現場から火力不足が指摘されていた。前項のMiG-9計画では武装をUBSを3挺 (前生産型は加えてShKAS 2挺)としていたが、MiG-3U計画ではShVAK (20 mm機関砲)を2門搭載することとし、大幅な火力増強を行った。
これはMiG-3U独自の強化というわけではなく、実はMiG-3の後期生産機の一部は、火力を上げるべくShVAKを2門としていた機体が居たのだ。MiG-3Uではこれを標準化するつもりだったということだろう。
他のMiG-3とMiG-3Uの違いとしては、全長が370 mm延長されたという点があった。これはエンジンとコクピットの間に440ℓの燃料タンクを備えた為である。MiG-3はMiG-1の際に「新型戦闘機の航続距離は1,000 kmの航続距離を有す事」という要求に応えるため、コクピットの下に追加タンクを備えたのだが、これが重心位置を後ろに下げてしまい安定性に大きな悪影響を与えていた。(後に容量を削減したが、これにより旋回所要時間や安定性が劇的に改善されている) MiG-3Uの延長と燃料タンクの話は、このMiG-3の後付けによる重心の狂いを、タンクの削除と集約及び移動によって清算する為のものであったと予想される。
また、原型機と比べ金属部がさらに削減されている事も違いとして挙げられるだろう。当時はまだレンドリースで金属が供給されておらず、金属が豊富と言えなかったため、鋼管構造と金属パネルだった胴体部が、木製モノコック構造に置き換えられていた。
エンジンは原型機と同じくAM-35Aを搭載していた。このエンジンは、同系列のAM-38 (Il-2のエンジン)の生産が優先されたことで生産が中止となっているため、中古のものをオーバーホールして使用していたという。これから量産を目指そうという試作機に、既に生産が終了したエンジンを使用するのは理解に苦しむところはあるが、恐らくAM-35の後継エンジンの話が既にあり、それを見越して既存のエンジンで機体開発を進めていたのだろう。
その他の細かい変更と言えば、排気管が集合排気管3本が単排気管6本に置き換えられ、これに合わせて排気管後部の耐熱パネルが小型化された事。主脚カバーが新規設計のものに置き換えられた事なども挙げられる。
【前生産型と実戦テスト】
I-230 試作1号機に続いて、シリアルD-02からD-06の計5機の前生産型が作られた。試作1号機との違いは、アンテナマストが追加された事と、僅かにラジエーターフェアリングが拡大されたことであった。
さらにD-02のみは他と仕様が異なっており、高高度性能を高めるべく主翼が延長 (10.2 m→11.0 m) されていた。これにより上昇限度は500 m高まったが、他とは僅差である為取り入れるほどではないと結論付けられた。
少数ながら生産されたI-230のうち、エンジン換装が必要であったD-02とD-05を除く計4機 (D-01, 03, 04, 05) が実戦テストへ送られた。カリーニン戦線にて、A. S. Pisanoko中佐が指揮する第12親衛戦闘航空連隊 (12 GvIAP)が試験を行ったという。戦闘評価では、大口径機関砲の小口径機銃に対する優位性などが挙げられた。
【MiG-3U計画の結末】
上記の通り、MiG-3UはMiG-3の多くの欠点や不満点を解消し、高い性能を記録した。現役のYakやLaとは得手不得手が異なるので比較は難しいが、決して劣るものではなかった。数値的には優れた部類であるのは間違いないだろう。
しかしながら、高い評価の一方で、「経験の浅いパイロットにとって操縦が難しい―特に着陸時が困難である」という評価もなされていた。その他の欠点も考慮された結果、NII VVSは当機の受け入れを決定しなかった。I-230は生産に至ることなく開発を中止された。恐らくはこのタイプ―高高度性能に優れた戦闘機をあまり求められていなかった事も理由の一つであった事だろう。
◆両計画のその後
開発中止となった2つのプロジェクト―MiG-9計画とMiG-3U計画だが、それぞれ強化・発展を目指した機体も作られていた。これらについても少し記しておこう。
【MiG-9Ye/I-211】
MiG-9―I-210の発展機には、カウル設計を見直し、より空力的な洗練を施した『I-211 (露:И-211)』と呼ばれる機体が作られていた。軍名称では『MiG-9Ye (露:МиГ-9Е)』とも呼ばれた。
この機体はM-82Aの強化型であるM-82F (露:М-82Ф, 離昇1,850 hp)エンジンを搭載し、全備重量は280 kg軽減されていた。また空力洗練のため、オイルクーラー用のインテークは翼付け根前縁に移動された。排気管も片側1本から2本に分割、小型化されカウルからの突出度合を軽減している。
他の違いとしては、翼前縁スラットの削除、水平尾翼位置の引き上げ、武装の強化 (ShVAK 2門 各150発)などがあった。
I-211は1943年2月24日に初飛行を行い、続いて試験が行われた。最高速度は670 km、上昇性能は5,000 mまで4分とされた。この性能は当時の主力機La-5FやYak-9より優れているもので、上記改修もあってI-210の欠点もほぼ解消されていたことから、最高の戦闘機であると評され量産が推奨された。
しかしながら、当時このI-211を即座に生産開始出来るラインがなく、同エンジンを搭載するLa-5の生産ラインを置き換えるには、数週間から数か月の期間を要するとされた。1機でも戦闘機が必要とされた当時のソビエトにおいて、既定の戦闘機生産数を満たせないことは非常に重大な問題となる。この為La-5の生産は継続され、I-211の採用は見送られた。
I-211はLa-5FNより22 km/h優速であったものの、44年より生産が行われるLa-7よりは劣速であった。 (ただ上昇性能は依然I-211が勝るものだった) そしてこのLa-7はLa-5と共通の部位が多く、生産ラインの置き換えもほぼ不要であるので生産が滞ることもない。結果的には、I-211へのライン置き換えを行わなかったのは正解であったと言わざるを得ないだろう。
【I-231】
MiG-3U―I-230の発展機としては、『I-231 (露:И-231)』があった。これはI-230のエンジンをAM-35Aの発展型であるミクーリンのAM-39A (離昇1,800hp)に換装したほか、I-230にて木製構造に置き換えた部位を、金属製セミモノコック構造に置き換えたものだった。I-231という名の他に、局内の名称としてはI-230の《D》に続く《2D》(露:2Д) が割り当てられた。
武装はI-230と同じく2門のShVAK (各160発)を搭載、翼幅も通常のI-230と同じであった。 (恐らく翼構造も同じもの)
1943年10月19日に初飛行を行い、試験では高度7,100 mで707 km/hを記録し、I-230よりも47 km/h速いものだった。全体としてみれば、より高速な試作機はいくつか存在する (Yak-3 VK-108, I-225など)が、当時としてはソ連最速の機体であっただろう。
度々事故や故障に見舞われながらも様々な試験を行ったが、1944年5月下旬にAM-39が生産に入らないことが決定されたことで、I-231も開発中止が決定された。最後のMiG-3は、良好な性能を発揮しながらも、またもやエンジンによって道を断たれたのである。
【おわり】
という訳で、MiG-9とMiG-3Uについては以上である。調べたり記事を書いたりしながら、「戦中のMiG-3の復活がありえたか?」をちょっとばかり考える内容であった。
最後に記したI-231で一つ頭に浮かぶのは、「たとえAM-39が生産ラインに乗ったとしても、I-231は量産される可能性があっただろうか?」というところだ。高高度性能をあまり要求されない状況で、YakとLaシリーズを押しのけて、当機が主力の座を勝ち取るものとも思えない。
彼らはもしも必要ならば、それこそ40年から41年にかけての様に、ある程度の難くらい生産に乗せながらどうにかするとしたのではないだろうか?状況的に必要とされたか、そうでないかがまず最初のポイントであると思う。
もしもI-230, 231の様な機体が採用される状況があるとすれば、ルフトヴァッフェが『ウラル爆撃』などを実現させた時だろうか?ただこのIFを実現するには、さらにいくつかのIFを重ねる必要があるだろう。現実的なところの話ではないし、このIFを論じても意味はあまりないだろうと私は考える。
ここまでの話を考えると、「M-82への換装」というのは彼らにとって最初で最後のチャンスであり、これを逃したからこそミグに戦中の復活は無かったのだろう。
YakとLaの様な優れた機体が居て、高高度性能に優れた機体も求められていないという状況で、もしも彼らの設計した戦闘機が主力に選ばれることがあるとするのならば……それは「これまでとは異なる戦闘機」が求められた時になる。
そう、これまでとは異なる推進方式を有する次世代の戦闘機―ジェット戦闘機の開発は、念願の主力機の座を勝ち取るチャンスであり、彼らは見事それを掴んだのである。
これ以上はMiG-3の派生機の話から外れてしまうので、今回はここまでとしよう。
空冷化型のMiG-9と、強化改修型のMiG-3Uについて、より広く人に知ってもらえれば幸いである。
...というわけで、2019年最後の記事をお読みいただきありがとうございました。
また来年もよろしくお願いします。
<参考リスト>
=書籍=
■ 『Early MiG Fighters In Action』, Hans-Heiri Stapfer, Squadron/Signal Pubns, (2006)
P.15-16, 22-23, P.30-31
■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War』, Yefim Gordon, Dmitri Khazanov, Motorbooks Intl, (1999)
pp. 74-76
■『世界の傑作機 No.156 第二次大戦ミグ戦闘機』, 文林堂, (2013)
pp. 15-16, 21-22
=Web=
◆260-я смешанная авиационная дивизия (第260混成航空師団-Wikipedia露版)
https://ru.wikipedia.org/wiki/260-%D1%8F_%D1%81%D0%BC%D0%B5%D1%88%D0%B0%D0%BD%D0%BD%D0%B0%D1%8F_%D0%B0%D0%B2%D0%B8%D0%B0%D1%86%D0%B8%D0%BE%D0%BD%D0%BD%D0%B0%D1%8F_%D0%B4%D0%B8%D0%B2%D0%B8%D0%B7%D0%B8%D1%8F
◆И-230 (МиГ-ЗУ, Д)
http://www.airpages.ru/ru/i230.shtml
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