ソ連の混合動力機 Part2【液体燃料ロケット編】


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[2023/12/10] 記事公開

前回は、ソ連の「パルスジェット及びラムジェットエンジンを搭載したソ連の混合動力機」についての話をした。続くPart 2では、ジェットエンジンではなく「ロケットエンジンを搭載した混合動力機」についての話をしていこうと思う。

 

まずはソ連の航空機開発におけるロケット分野の始まりと発展から見ていこう。

◆ソ連とロケット機開発

ソ連におけるロケット機の開発史を辿っていくと、かの著名なコンスタンチン・ツィオルコフスキーに行き着くことだろう。今日でも使われる公式や宇宙に関する数々のアイデアを生んだ彼は、30~40年代におけるロケット動力機開発の始点とも言える存在であった [註1]。彼の考えは帝政ロシア時代には見向きもされていなかったが、革命後のソビエトにおいては科学アカデミーの会員となり、仲間と共に宇宙進出のためのロケットの研究を進めていた。

国内で次第にロケット分野への関心が高まってくると、レニングラードの『気体力学研究所 (GDL)』やモスクワの『反動推進研究グループ (GIRD)』といった機関が立ち上げられ、熱心なロケットの研究が始まった。ツィオルコフスキーはロケット技術の発展を見届けることなく1935年に亡くなったが、彼の影響を受けたこれらの研究施設と研究者たちがソ連のロケット開発を大きく進めていくこととなる。

当然ながらロケットは宇宙分野だけでなく、軍の兵器としての研究も進められていた。1933年にGDLとGIRDが合併して生まれた『反動エンジン科学研究所 (RNII, 露:РНИИ)』では、後に大祖国戦争で広く用いられるようになる空対空/空対地ロケット弾『RS-82』、これの姉妹兵器から派生した『カチューシャ』ロケットが生み出された。

その他にも離陸補助ロケットブースター (RATO) などの開発もあったが、最も関心が高かったものといえば「ロケットエンジンを搭載した有人ロケット推進航空機」であった。

本題に入る前に、少しロケットについての話をしよう。

ロケットエンジンには大きく分けて2種類あり、それらは燃料の種類によって分けられる。上にも出てきたRS-82やカチューシャの様なロケット弾は、内部に固体の燃料 (推進剤) が充填された『固体燃料ロケット』だった。ロケット内の燃料をそのまま燃焼することで推力を発生させるもので、信頼性が高く構造も簡単な作りにできた。しかし、固体ロケットは一度燃焼を始めると止めるのが困難であり、またその制御も同様である。

一方有人ロケット推進航空機は『液体燃料ロケット』を使用することとしていた。こちらは液体の燃料と酸化剤をそれぞれタンクに搭載し、それらを燃焼室で混合して燃焼させ推力を発生させるものである。燃焼を適宜調整することで推力を制御することができるが、推進剤 (燃料と酸化剤) を供給・混合するための機構がある分『固体 (燃料) ロケット』より複雑化する。

他にも固体ロケットと液体ロケットでは様々な異なる点があるが、「ロケット機及び混合動力機」の事前知識としては上記で充分だろう。これ以上は受け売りのボロが出るだろうし

ソビエトにおける有人ロケット機開発の第一歩は何だったのかといえば、それはあるロケットグライダー機だった。そしてその機体を設計したのは、後に世界初の大陸間弾道ミサイルを開発するセルゲイ・コロリョフであった。

コロリョフはツィオルコフスキーに影響を受け、そしてフリードリッヒ・ザンデルと知り合い、彼らと同じくロケットを研究する人々と共にGIRD (反動推進研究グループ) を立ちあげた。そしてザンデルが開発した液体ロケットエンジンを試験するためのRP-1という機体 [註2] の開発に携わっていたが、1933年3月─ザンデルの死去と共にこの計画は中止となってしまった。そしてコロリョフは、自身の手で液体ロケットエンジンの試験機を作ることを考え始めた。

コロリョフはアンドレイ・ツポレフの指導を受け、爆撃機の設計にも携わっていた。GIRDがGDLと合併されてRNIIとなった後の1934年には、そうした経験をもとにしてロケットエンジン試験機の母体となるグライダー機の設計をはじめた。それはSK-9 (露:СК-9) という複座のグライダー機として完成し、そしてこれをベースにした「与圧キャビンを持つ複座の高高度ロケット機」─後にRP-218 (露:РП-218, RP-218-1とも) と呼ばれることになるものを計画した

RP-218計画は1936年2月2日にRNIIの上層部に提出され、会議で承認を得て1937年の計画に組み込まれた  (なおこの辺りで複座から単座になるなど、いくつかの変更があったようだ)。

機体が試験するロケットエンジンであるが、RNIIではいくつものロケットエンジンを試作・試験しており、中でもヴァレンティン・グルシュコが手掛けていたORM-65という液体ロケットエンジンが当時もっとも進んでいたものだった。

ORM-65は1936年中に一通りの試験を終えていた。1937年9月には機体へのエンジンの取り付けが行われ、12月16日に地上での動作試験が行われた。

このようにコロリョフは精力的にロケット機開発を推し進めてきた。しかし残念ながら彼はそれを成し遂げることはできなかった。1938年より吹き荒れた『大粛清』の嵐はRNIIにも及び、先に逮捕されていた同僚かつ友人でもあったグルシュコの虚偽の告発によって、収容所送りとなってしまったからだ。

コロリョフとグルシュコが不在となった後も、RP-218の開発は進められた。機体の方は後にShche-2を設計することになるアレクセイ・シチェルバコフが、推進器周りにもグルシュコの代わりに他の者 (パロ?Palloというらしい) が割り当てられ、さらにエンジンもORM-65からレオニード・ドゥシュキンが設計したRDA-1-150 (露:РДА-1-150) に変更された。末尾の ’150’ は、エンジンの最大推力150kgを意味するそうだ。

1938年のいつかは分からなかったが、RNIIの組織構成が変わったことでRP-218の名はRP-318に変更になった。どうやら頭の1桁が部署番号、後ろの数字がプロジェクトの連番らしく、'2-18'から'3-18'になったということだろう。

機体は1940年1月にモスクワ郊外の飛行場に運ばれ、無動力の滑空飛行とロケットの地上試験が始まった。そしてしばらくして有人でのロケットを搭載しての試験飛行の許可が下りた。

2月28日 17時28分、RP-318はR-5に牽引され空へ上がった。高度2,800mで機体は切り離され、テストパイロットはロケットエンジンを始動した。110秒間のロケット噴射が機体を80km/hから140km/hまで加速させ、その後高度2,900mまで上昇した。これがソビエトにおいてロケットエンジンが有人機の推進装置として使用された瞬間であった。

pic01 (左/上):RP-318-1 ロケットグライダー、尾部に突き出たロケット噴射口とそれを避けるように上に伸びた垂直尾翼が特徴的。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/xplane/rp318.html
pic02 (右/下):ソ連で最初に作られた試作ロケット動力機BI、形態はオーソドックスな士の字である。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/fww2/bi1.html

試験用の有人ロケットグライダーに続いたのは、実用ロケット動力戦闘機であった。アレクサンドル・ベレズニャクはRP-318の飛行試験を見て、アレクセイ・イサエフと共にロケット機について話し合った。そして1941年5月下旬、彼らは高速ロケット戦闘機─後にBI (露:БИ) となるプロジェクトの提案をすることを決め、その仕様の検討を始めた。7月9日に各所との話し合いの結果、試作機5機の製作が認められた。

ベレズニャクとイサエフは「初飛行まで3か月」としていたが、6月22日より勃発した『大祖国戦争』によりロケット戦闘機を早急に実用化することを求められたため、僅か35日で行うことと定められた。そのため作業要員は設計局で40日間 24時間 3交代制で作業にあたった。

エンジンより先に完成した機体は、9月にPe-2に牽引され無動力での滑空試験が行われた。1942年1月下旬には本機の動力源となるD-1A-1100 (露:Д-1А-1100) エンジンが搭載された。これはドゥシュキンが開発した液体ロケットエンジンで、地上で1,100kgの推力を発生するものだった。推進剤たる赤煙硝酸 (RFNA) とケロシンは胴体内の円筒形タンクへ納められ、これらはボンベに詰められた圧搾空気によって燃焼室へと供給されることとなっていた。

ドイツのHe176から遅れること約3年、ソ連で最初の純ロケット動力飛行は1942年5月15日に行われた。エンジンは正常に動作し、停止後の滑空にも特に問題はなく着陸した。その後も動力試験飛行が行われ、続く試作2号機と3号機の製造も行われた。

BIの話で有名なアクシデントは3号機で発生した。1943年3月27日、高度2,000mにて全力飛行を行なっていた最中、800km/hを超える水平加速をしている時だったという。機体は機首を下げて急降下に入り、そこから回復させることが出来ずに墜落した。その後行われた風洞試験で、900km/hではパイロットがそれを抑えられないほどの機首を下げるモーメントが発生することが分かった。

その後も様々なバリエーションの試作とその試験は続けられたが、1944年までに上層部はロケット戦闘機への興味を失っており、BIの緊急性は取り下げられていた。当時BIの他にも«302»、«4302/4303»、そして«マリュートカ»といったロケット戦闘機計画があったが、いずれも実用には至らず終了している。

 

BIらの開発経験は戦後に開発されたロケット/ジェット機に活かされたが、ロケット戦闘機自体が戦中に実用化され戦果をあげることは無かった。そして大戦の後期に上層部が注視していたのは、ロケット機より現実的な、ともすれば妥協的とも言えるような産物であった。


[註1]:実際のところ彼より前にもロケット開発に関わるものは幾人も居たが、航空機に繋がるとなると彼の影響が一番強かったことだろう……たぶん。より良い表現があれば教えてください。
[註2]
:RP-1 (ロケットグライダー1の略) は、BICh-11 (チェラノフスキーが開発していた全翼機の一つ) に、ザンデルのOR-2ロケットエンジンを取り付けたものだった。BICh-11はその後ロケットエンジンからスコーピオンなる低出力レシプロエンジンに置換され、更なる飛行特性の試験を行った。

◆ロケット戦闘機の問題点

ロケット戦闘機が実用に至らなかった理由はいくつかある。

まずは『危険性』。固体燃料と違い危険な液体の推進剤を取り扱う液体ロケットは、当時は危険性が高かった。BIではしばしば爆発事故が発生し負傷者も出していた。

地上では酸化剤の取り扱いは常に危険が付きまとい、それは人員だけでなく機体にとっても同じことであった。耐酸性の素材はともかく、そうでない部位に降りかかろうものなら容赦なく腐食し、機体は飛行が許されないコンディションとなった。かくいうBIの試作1号機も、酸の腐食によって飛行ができなくなっているという。

この問題はそうそう解決できるものではなく、戦中においてはその最後まで付きまとうこととなった。

二つ目は、『航続距離・飛行時間の短さ』である。

ご存じの通り、ロケットは短時間に大きな推力を発揮できるが、その消費量は膨大である。ソビエトに限らず、戦中のロケット戦闘機の燃焼時間といえば数分程度である。

もちろんロケット戦闘機が長く飛んでいられないなんてことは、搭載する推進剤と消費量を計算すればわかることである。コロリョフらが考えたロケット戦闘機の構想の中でも、その行動範囲は短距離・短時間であることは触れられており、作る前から分かり切っていたことであった。

しばしば書籍で「試験してみたところ航続距離が短いことが分かり……」と書いているものも見られるが、「当初の想定より航続距離を延長させることに苦難していた」というのが実際のところだろう。単純に燃料を増やしても重量が増えてしまうし、搭載できる量も機体の規模によって制限される。多く積むには大型化が必要だが、そうすれば重量が増して比推力が低下してしまい思ったように延びない。レシプロエンジンのように落下増槽的な投機可能なタンクを設けるという手法も、液体ロケットの推進剤では同じようにはいかない。

航続距離を伸ばす試みはいくつもあった。BIのバリエーションには、滞空時間を30%向上させる新たな球状燃料タンクを搭載したものや、前回の記事で触れたメルクーロフのDM-4 ラムジェットエンジンを翼端に備え、巡行時はラムジェットの推力で飛ぶというアイデアもあった。チホランホフが考案しコスチコフが設計したロケット戦闘機«302»も、当初は翼端にラムジェットエンジンを設けて航続距離を延長するという考えだった (その後ラムジェットをオミットした302Pに移行しているが)。

巡航用ラムジェットエンジンはPart1で書いた通り「非使用時には空気抵抗にしかならない」うえに、「使用するにはそれ用の燃料 (=重量物) を搭載する」必要がある。重量が増えれば、上昇に要する推進剤の量は増大する。本末転倒とまでは言わないでも、思ったような航続距離延長とはならないのかもしれない。

レシプロ機がエンジンの発展と共に高性能化・大型化していったように、ロケット機もまたエンジンの発展が必要であったのだろう。

◆ロケット増速装置 RD-1

そもそもの「『混合動力機』とは何か?その定義は?」という話はPart 1の方でしているが、本シリーズでは「飛行をするにあたり、2種類以上の動力を備えている航空機 (※RATO/JATO除く)」とさせてもらっている。今回もこれに則って話を進めていく。

また、今回のメインたる「レシプロ (ピストン) エンジンと液体ロケットエンジンの混合動力形態」は、以降「PD-ZhRD」と略すこととする。露語ではピストンエンジン─Поршневой двигательをPD (露:ПД)、液体燃料ロケットエンジン―Жидкостный ракетный двигательはZhRD (露:ЖРД) と略すようで、これを繋げたものになる。なおこれは弊HP独自の表記法なので注意すること。

ソ連で最初のPD-ZhRD機は、1943年に現れた。それはペトリャコフの双発爆撃機 Pe-2の尾部に液体ロケットエンジンを組み込んだPe-2RD  (露:Пе-2РД, RDはロケットエンジンの頭文字) であり、そしてこの機体とエンジンを開発したのは、1938年に逮捕され収容所送りとなっていたコロリョフやグルシュコらであった。

時をさかのぼって1938年、逮捕されたコロリョフは裁判により「10年の強制労働」が課され収容所に送られていた。翌年からの労働の中で彼は重篤な病にかかるなどあったが、彼を知る人々の嘆願などの尽力により治療を受けることができ、また刑期も減ぜられるに至った。

その後は、彼と同じように『大粛清』により逮捕・投獄されていた、アンドレイ・ツポレフが率いる第29中央設計局 (TsKB-29, 露:ЦКБ-29) でPe-2・Tu-2の開発に携わっていたという。

このTsKB-29というのは通常の設計局ではなく、彼らのように逮捕された設計者らが労働する場所であった (TsKB自体はそういうものではなく、この設計局がそうだったことに注意)。航空機やそれに関連したものを設計・開発することで罪を償うのである。後述する『特別設計局』も同じようなものである。また、先に名が出たPe-2やTu-2はそうした場所で生まれた機体だった。

1942年にはカザンの第16航空機工場内にあった第16特別設計局 (OKB-16) [註3] に移され、ここでかつての同僚であり当の告発者であるグルシュコと共に、再び航空機開発に努めることとなった。

コロリョフがOKB-16に来るころには、グルシュコは新たなロケットエンジンRD-1 (露:РД-1) の開発を進めており、これを用いた航空機を考えることが彼の新たな仕事だった。刑に服しながらではあるが、元々やっていたロケット機開発に再び着手することになった。

RD-1の情報を受け取った彼は、まず高高度ロケット迎撃機について考えを文書にまとめた。これはRD-1を主エンジンに据えたロケット機で、2.5分で高度10,000mに達するものとしていた。OKB-16の長の承認を受け航空産業人民委員部 (NKAP) へ送られたが、既にBIや«302»などの開発が進んでいたことから、それ以上の進展はなく終わった。

ロケット戦闘機がNKAPに承認されなかったことをみて、彼らはアプローチを変えることにした。既に進んでいる戦闘機以外の機種─ちょうど隣接する工場 [註4] で生産されていたペトリャコフのPe-2爆撃機に目をつけ、これにロケットエンジンを搭載しようと考えたのである。

Pe-2は前線爆撃機であることから広くない野戦飛行場で運用されることが多く、離陸に要する滑走距離がその運用を制限してしまう場面があった。それをロケットブースターによって解決しようということで、設計局の方も興味を持ったようだった。既存の機体にロケットエンジンのための推進剤と各種機材を組み込むのには苦労したようだが、1943年の春にPe-2の1機に対し改造が行われた。

Pe-2RD赤煙硝酸 (RFNA) を胴体の爆弾倉スペースに、ケロシンは翼の付け根に配置し、エンジン後部などの機体各部のスペース (恐らく小型爆弾を搭載する爆弾倉を含む) にそれらの推進剤をロケットエンジンに送り込むシステムを実装することに成功した。RD-1エンジンは尾部に組み込まれ、使用前にはフェアリング (カバー) が取り付けられることとなっていた。

Pe-2は3人乗りで、パイロットの他に航法士と無線手兼操縦手の2名分の座席があった。Pe-2RDではそれらはエンジニアの席になっており、また試験飛行に際してはコロリョフ自身がそのうちの1つに着いていた。

pic03 (左/上):尾部にRD-1を追加したPe-2RD、外見に大きな変化は見られないが、各部にロケットのシステムを張り巡らせている。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/xplane/pe2rd.html
pic04 (右/下):尾部のRD-1ロケットエンジン、使用する前はカバーで覆われて整流されている。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/xplane/pe2rd.html

Pe-2RDは1943年10月1日に初飛行した。地上で300kgの推力を発揮するRD-1エンジンを使用した際には、2分間の噴射で92km/hの増速がみられた。離陸時に使用した際には、滑走距離の短縮と上昇性能の向上が確認された。条件は不明だが、離陸時に使用した際には滑走距離が70m短縮されたという情報があった。

地上や空中の試験では様々な問題が明らかになったが、その中でも最も重大だったのは「点火装置の信頼性」だった。RD-1の点火装置は電気式であったが、特に高高度での飛行中においてその動作の信頼性が十分でないことが分かった。これに対しグルシュコらは、点火装置を化学発火式に置き換えた改良型のRD-1KhZ (露:РД-1ХЗ) を開発した。これはエンジンの信頼性や寿命が改善され、以降のロケット混合動力機でもこちらが用いられている。

Pe-2RDは1945年の半ばまでに計100回を超える試験飛行が行われ、液体燃料ロケットブースターが航空機にもたらす様々な効果が確認されたが、続く2機目が作られることはなかった。だが、この機体における試験と並行して、その試験データをもとに新たな混合動力機たちが生みだされていたのである。


[註3]:こちらも逮捕された設計者などが働く場所。Part 1の方で名前が出たボリス・ステーチキンも釈放前はここに居たらしい。

[註4]:カザンのPe-2生産工場と言えば『第22工場』が浮かぶが、ここのことだろうか?

◆PD-ZhRD混合動力戦闘機計画

実のところ、このようなPD-ZhRD─レシプロ-ロケット混合動力機の形態を採る機体の計画は、Pe-2RDよりも前にあったらしい。『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Vol.1』によれば、1943年には「Yak-9に対しRD-1を搭載した混合動力戦闘機」の開発に関するやり取りが記録されているそうだ。

第288工場にあったバルティーニ率いるNKVD管理下の設計局では、RD-1を搭載する戦闘機の開発計画が進んでおり、1943年7月1日までにはYak-9をベースにした機体の設計が完了していたという。しかしながら、第288工場にあった設計局が解散され、そのスタッフが第22工場と第482工場に移されたこともあり、実際に機体を改修する作業は未着手のままであった。

本格的にロケット混合動力戦闘機開発が始まるきっかけは、1944年5月22日に出されたソ連国家防衛委員会 (GKO, 露:ГКО) の決議 第5946号であった。これは米英独のジェット機開発の状況を知り、自国にはいまだそのような機体の開発が遅れていることに危機感を覚えたことから出されたものだった。もう少し詳しい話は次回のPart3で紹介しよう。

この決議では、計5つの新たな航空機開発指示が含まれていた。うち1つはポリカルポフの«マリュートカ»ロケット戦闘機案で、2つは混合動力機記事Part3で取り扱うVRDK機だった。そして残る2つが、液体ロケットブースターRD-1を装備するPD-ZhRD戦闘機についてであった。

また、これらのベース機として指定されていたのは、ヤコヴレフとラヴォチキンの戦闘機であった。まずはYak機の方から順に紹介していこう。

ヤコヴレフのPD-ZhRD機

GKO決議 第5946号でヤコヴレフ設計局に対し指示された内容は、当時の主力戦闘機であるYak-9 (M-105PFエンジン搭載) を混合動力戦闘機化せよというものだった。

ソ連機の開発で時折みられる不思議なところがここでも見られ、GKO決議で指定されていたのは上記の通りだったが、実際に設計・試作された機体はYak-3をベースとしていたのである (武装も"Yak-9と同様"とあったが、後述の通り異なる構成になっていた)。手持ちの書籍や参考としたサイトにはその理由は記されていなかったが、それまでの機体より軽量化されていたり、より空力的に洗練されていたりしていたことからだろうか?ともあれ、このように指示された内容と異なるものが作られるのは興味深い。

PD-ZhRD版Yak-3は、Yak-3RD (露:Як-3РД) と命名された。試作機はサラトフの第292工場製の機体 (シリアル18-20, 第20バッチの18番生産機 ⇒シリアル解読) を改造したものだった。機体は尾部が再設計されており、RD-1エンジンは胴体を構成する鋼管構造の端に備えられ、尾端部にロケットの噴出口が設けられた。これによるラダーの面積減少をカバーするために垂直尾翼周りが拡大されている。またエレベーターは腐食対策として金属に置換されていた。

pic05 (左/上):Yak-3RDの側面、キャノピーが低くなり、尾翼や尾部の形状が異なるのが見て取れる。
Photo from:https://legendary-aircraft.blogspot.com/2013/05/Modifikacii-Jak-3.html
pic06 (右/下):尾部に付けられたRD-1のカバーを外したところ。
Photo from:https://legendary-aircraft.blogspot.com/2013/05/Modifikacii-Jak-3.html

内部的には、翼内にケロシン50kgと酸化剤 (RNFA) 200kgを搭載するようになっていた。エンジンはオリジナルそのままのVK-105PF2 (離昇1,250hp) だったが、武装はモーターカノンにNS-23 23mm機関砲1門 (60発) のみに変更されていた。

また、コクピット周りにも変化があり、キャノピーは高さを70mm低くしたものが取り付けられ、Yak-3がパイロット後部に取り付けていた防弾ガラスを削除し、装甲化されたヘッドレスト (座席と一体か分割されているかは不明) に置き換えられていた。恐らくは軽量化や空力洗練を狙ったものなのだろう。結果としてYak-3RDの重量は3tを下回る2,980kgに収まった。

Yak-3RDは1944年12月22日に初飛行を行い、Pe-2RDと同様に途中でロケットエンジンをRD-1KhZに置き換えたりなどしつつ試験が続けられた。1945年5月11日の試験では7,800mにて782km/hを記録、これはGKOの決議で設定されていた目標値最高速度780km/hを僅かながら上回る値であった。また通常のYak-3の最高速度は (高度4,100mでのものではあるが) 646km/hとされており、その増速効果はやはり大きいことが見て取れる。

RD-1に起因する事故はしばしば起きており、RD-1KhZになって改善はみられても完全に解決したわけではなかった。5月14日では地上で作業中に爆発事故を起こし、8月13日まで飛行は行われず、14日に再開されるも翌日にはケロシンを送り出すパイプの破損を起こした。

Yak-3RDは1945年8月18日の『航空の日』に予定されていた展示飛行に備えていたが、8月16日の飛行で突如急降下し墜落、テストパイロットの命も失われた。原因は特定されなかったが、パイロットの突発性機能喪失 (incapacitation) か、エレベーターの故障のどちらかではないかと考えていたようだ。

 

ともあれYak-3RDはこの墜落にて終わりを迎え、続く機体は作られなかった。

ラヴォチキンのPD-ZhRD機

GKO決議 第5946号にあったもう一つの混合動力機は、ラヴォチキン設計局に対するLa-5へのRD-1搭載だった。しかし当時は既に「La-5 1944年標準」ことLa-7が既に完成しており、より高性能であったことからこちらがベースとされた。

RD-1付きLa-7─La-7R (露:Ла-7Р) はYak-3RDと同様、再設計された尾部にRD-1を追加し、減少してしまう面積を尾翼の高さを増すことで補っている。機体中央の燃料タンクは270kgの酸化剤 (RFNA) に置き換えられ、右翼内にはケロシン60kgを収めるよう改修されている。これによりガソリンの総搭載量は340kgから210kgに減少している。

La-7からの外見上の変更点としては、過給機用の空気取り込み口の「先祖返り」がある。La-7は翼の付け根にインテークを設け、ここから過給機の空気を取り込んでいたが、それをLa-5FNと同じ機首前上部のインテークと同型に戻していた。これは尾部にエンジンを設けたことによる重心位置の調整のほかに、酸化剤の搭載スペース確保もあるのかもしれない (酸化剤タンクの周囲に断熱材を仕込んだりしているようだ)。

エンジンはASh-82FNから変わらず、武装も機首上部のShVAK 20mm機関砲から変更はなかった。

pic07 (左/上):La-7R-2の側面、La-5FNと同じ過給機用インテークが機首上部にあるのが見て取れる。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/fww2/la7r.html
pic08 (右/下):カバーが付けられていたYak-3RDと異なり、最初から噴射口が開口している。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/fww2/la7r.html

La-7Rは1944年10月21日に完成し、27日に工場での試験を開始した。11月初旬からロケットを使用しない飛行を始め、しばしばエンジンの故障はありながらも大きな事故無く試験は続けられた。試験の中ではRD-1によって最大85km/hの速度上昇が確認された。

La-7Rでの試験結果をもとに、試作2号機となるLa-7R-2も作られた。こちらは最初からRD-1KhZを搭載しており、1945年3月に初飛行した。試験飛行では高度6,300mで時速795kmに達し、ある飛行では高度13,000メートルに到達したという。通常のLa-7が高度6,000mで661km/hであるので、ロケットにより130km/h以上の増速効果が認められた。また上昇限度も通常より2,000mほど高いものである。

しばしばロケットエンジンにまつわる大小の事故を起こしながらも試験は続けられたが、2機の試作以上のフェーズに進むことは無かった。生き残ったLa-7Rは、1946年8月18日のツシノのパレードに参加し、展示飛行を行なっている。

ラヴォチキンの機体にはもう1つロケット混合動力機にされたものがあった。それはLa-7から派生した«120»という試作機である。Part1のパルスジェット搭載機 («126»/«164») の話でも触れた「La-9に繋がる機体たち」の一つである。

1945年、La-7をベースとした試作戦闘機«120»が作られた。これは主翼を新規設計された層流翼のものに置き換え、エンジンをASh-83 (離昇1,900hp) に換装したものだった。後にこれの胴体前部を金属化した«126»や全金属化した«130»が生まれ、これらがLa-9の前身となるのだが、今回の話では«120»のみが関係しているのでまた別の機会にしよう (そのうちLa-7→La-9間のミッシングリンク的な話をしたいなぁ...)

ある程度の試験が行われたのちに機体を再利用しようとしてか、こちらにもRD-1を追加することとなり、その結果«120R» (露:120Р) が誕生した。基本的にはLa-7Rを踏襲しているようで、270kgの酸化剤と60kgのケロシンの追加、尾部の再設計と素材の置換がなされている。重心位置の調整のためにエンジンの取り付け位置を70mm前方にずらし、あわせてオイルタンクなども移動させているようだ (La-7Rではバラストを積んだりしていた)。

pic09 (左/上):改造前の«120»、La-7と似ているが主翼は単桁の層流翼に変更するなどの違いがある。
Photo from:https://www.laspace.ru/ru/company/history/aviation/120/
pic10 (右/下):改造された«120P»が地上でロケットを試験しているところ。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/xplane/la120.html

«120R»は1945年7月から試験を開始。高度2,150mで計測されたものでは、ロケット非使用時に622km/hだったものが、RD-1KhZを使用した際には時速725 kmにまで伸び、やはり100 km/h以上の増加することが確認された。しかしLa-7Rと同じくそれ以上の進展はなく、これに続くものは作られなかった。こちらも1946年のツシノで展示飛行を行ない、観客にその姿を見せているそうだ。

スホーイのPD-ZhRD戦闘機

さて、PD-ZhRD機の開発はこれで終わりではない。タイトルで既にネタバレをしているが、スホーイでもPD-ZhRD戦闘機が作られていた。そのRD-1付きの戦闘機が開発されたきっかけというのが、「1943年にJu86Pがモスクワ上空に飛来し始めた」ことだったらしい。高高度を飛ぶ敵機を迎撃しうる高高度戦闘機が必要だとして、開発指示が下ったのだとされている。

ただこの指示についてははっきりしたことが分からず、GKOとNKAPの決議/指令が何であるのかも特定できなかった。あるサイトでは「1944年5月30日付のNKAP指令 第371号」だと書いていたが、これはYak-3RDとLa-7Rの項で書いたもののことであり、この中にSu-7のことは含まれてはいない (スホーイに対する機体の開発指示はあるが、それはPart3で取り扱うI-107/Su-5という機体のことである)。明確な誤りであった。

数日ほど調べてみても分からなかったため、ひとまずは参考資料の通り書かせてもらう。それ曰く「1944年6月5日付けでNKAP指令が出ていた」としており、内容としては「上昇限度は高度15,000m、運用上の飛行高度は14,000m。最高速度は12,000~14,000mで670km/h。武装は20mm機関砲を2門、総弾数は各120発であること」とされたそうだ。Ju86Pのような高高度偵察機/爆撃機を迎撃できる性能を持った戦闘機の開発指示ということだろう。

これに対しスホーイは、Su-6という装甲襲撃機をベースにした高高度迎撃機を提案した。Su-6とはイリューシンのIl-2の様に重装甲と大火力を有するタイプの試作対地攻撃機であり、またそのIl-2の座を狙って開発が進められていたものだった。そこから戦闘機には不要な部位の防弾装備や爆弾倉などを削除するなどして軽量化。さらにシュヴェツォフの空冷エンジンM-71F (離昇2,200hp) とTK-3というターボチャージャーを2基搭載することで、高い高高度性能と対爆撃機能力を有する戦闘機とすることを目論んでいた。

しかしながらM-71Fエンジンは当時開発中であり、僅かに試作されスホーイに割り当てられていた分はSu-6の開発で使い潰されていたため、すぐには使用できる見込みは無かった。そのため同じ空冷のASh-82FNエンジンに変更せざるを得なかったが、これは離昇1,850hpに過ぎず出力は到底足りるものではなかった。このままでは高高度戦闘機を作ることは到底叶わない。

そこで目を付けたのがRD-1ブースターであった。足りない出力をロケットエンジンで補い、また高高度性能もロケットにより達成するとしていたようだ。ロケットエンジンはレシプロエンジン・ジェットエンジンの様なエアーブリージングエンジン (空気を取り入れるタイプのエンジン) ではないため、外気の影響を受けない [註5]。空気の薄い高高度であっても力を発揮できることから、その点では理にはかなった選択ではあったと言えよう。実際La-7Rの項の通り高高度での性能も向上するのは確かだ。

pic11 (左/上):ベースとなったSu-6試作襲撃機、Su-7には複数あるモデルの中で初期のものが使用された。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/aww2/su6.html
pic12 (右/下):Su-6を元に作られた初代Su-7戦闘機、エンジン回りと尾部が異なるがよく似た外観をもつ。
Photo from:https://www.airwar.ru/enc/fww2/su7.html

Su-6をベースに開発された混合動力戦闘機はSu-7 (露:Су-7) と命名された。「何を言っているんだ?それは戦後のジェット機だろう」と思われた方もいるかもしれないが、そちらは「戦後に設計局が機体のナンバリングをリセットしたために生まれた『2代目のSu-7』」である [註6]

Su-7の機体構造はSu-6と同じく胴体は木製構造であり、ターボチャージャーの熱から保護が必要な部位には新たに金属製の外板を配していた。翼中央部は金属製だが、それに接続される外翼は木製構造となっていた。そしてRD-1KhZはYak-3RDやLa-7Rと同じく、金属製の尾部の先に配置されていた。

Su-7の試験は1944年末に完成し、1945年1月に初飛行が行われた。試験では海面高度で480km/h、高度7500mでは590km/h (ロケットなし)・680km/h (ロケット使用時)、高度1,2000mでは510km/h (ロケットなし) と705km/h (ロケット使用時) を記録。実用上限は12,750mに達し、ロケットは約4分使用できた。

 

Su-7の試験は1945年12月中旬まで続けられたが、そこで機体の開発は中止が決定された。試験中はRD-1の信頼性の低さやターボチャージャーの熱による外板への影響もみられたという。


[註5]:この世には「エアーブリージング・ロケットエンジン」なるものもあるらしいが、RD-1はそういうものではないので一旦忘れて欲しい。

[註6]:ソ連ではしばしば不採用になった機体の名前が再利用され、初代・二代目といった感じで同じ名前の機体が生まれたりするが、このケースではそもそものナンバリングをリセットしたために生まれたものだ。

◆PD-ZhRDという機体

通常はレシプロエンジンのみで飛行し、必要に応じてロケットエンジンをブースターとして使用し増速する形態の機体たちは、1944年から45年にかけて複数生み出された。しかしここまでに書いた通り、いずれもエンジンの信頼性の低さ─それがはらむ危険性の高さから、殆どの機体は1945年中には開発が中止され、そして一つとして少数の生産にすら至らなかった。

この形態に利点が無かったかと言えばそうではなく、純ロケット動力機が悩まされた航続距離・滞空時間の問題は解決しているし、速度・上昇性能・上昇限界高度などにしても高いものあったことは確かである。

一番の問題はやはり危険性が高いこと、あれらの機体が用いたエンジンの信頼性の低さだ。RD-1などは点火方式を変更したRD-1KhZになっていくらか改善されたが、それでもしばしば地上でも空中でも爆発を起こしており、ある時には機体が失われ、そしてそれにより飛行が差し止められていた期間もある。RD-1にしろ他のロケットエンジンにしろ、この問題を解決しないことには実用化に至ることは難しい。そして彼らは一定の安全性を確保することが (少なくとも戦中には) できなかった。

混合動力としたことで航続距離/滞空時間は伸びたものの、ロケットの使用可能時間の短さもいかんともしがたかった。推進剤の搭載量にはよるが、3分から4分程度ではやはり心もとないだろう。

確かに戦闘目的に限れば、「MW 50やGM-1の様な出力増加装置とそう変わりはないのではないのではないか?」という気はする。ただし離陸距離の短縮、急な上昇、レシプロ機以上の速度での飛行、高高度の飛行と広く使えるにもかかわらず、長くて4分程度しか使えないというのは、やはり短か過ぎるという感は否めない。一度どれかの用途に使ってしまえば、他に使う分はあまり残らないことだろう。

単体として見ると上記の通りだったが、本シリーズのPart1で取り扱ったパルスジェット (PVRD)・ラムジェット (PuVRD) を用いた混合動力機と比較するとどうだろうか。

 

まずそれぞれの違いを見ていこう。

液体ロケットは推進剤に赤煙硝酸 (RFNA)とケロシンを使用するため、機体はガソリンの他にもこれらを搭載する必要があった。一方パルスジェットとラムジェットは、レシプロエンジンと同じ航空燃料を使用しており、燃料タンクを共用していた。これらの違いは利点にも欠点にもなりうる。

ガソリンの他に推進剤を設けるには余計な搭載スペースを設ける、もしくはYakやLaのように既存の搭載燃料を減らす必要がある。搭載できる重量やスペースに限りがある航空機としてはやはり厳しいものがある。これは航続距離の減少にも繋がる問題だ。

しかし通常のレシプロと燃料が分かれているのは、ある種の利点ともなる。ロケットをいくら使おうとガソリン残量には影響が無いが、パルスジェット・ラムジェットは駆動時にレシプロ用と共通のガソリンを大きく使用することから、使えば使うほど飛べる距離は狭まることとなる。

ブースターの搭載の仕方についても違いが見られる。ラムジェット/パルスジェットエンジンによるブースターは、重心位置に影響の少ない主翼下に搭載されていた。一方で液体ロケットはといえば、ロケットからのの噴流が機体を侵すことを避けるため、尾部を再設計してそこに埋め込むかたちで搭載されており、その重心調整のためにバラストを積んだりエンジン等の位置を前身させたりしていた。

既存の機体に導入するに際し手間が無いのは、圧倒的に前者だ。強度さえ足りていればブースターを翼下に取り付けて、そこに燃料が供給されるような改修を施せばよい (実際ブースターにはそのような使い方も検討されていた)。ロケットは尾部を再設計し、さらにロケットブースター分の重量のつり合いを取るべく手間をかける必要がある。

しかし性能面で考えた時に、「ブースター非使用時の性能低下が小さい」のは液体ロケットの方だ。機外にブースターをぶら下げるより、胴体に埋め込む方が空力的に良いのは当然のことだ。ロケットは吸気が必要ない、インテークを設ける必要が無いのも有利となるポイントであった。性能の上昇幅もロケットの方が圧倒的だし、上にも書いた通り離陸や上昇の性能も向上させられるのは大きな魅力だ (ラムジェットは速度が出ていないと使えないし、高速でないとパワーも発揮できない)。

実用性の程度の差はあれど、いずれの方式もどちらが良いと一概には言いきれない「トレードオフ」の関係にあったと言えよう。そして共通するのは、どれも何かしらの問題があり、実用レベルはおろか試験のためのバッチ単位の生産にすら至らなかったということだ。

Part1はラムジェットとパルスジェット、今回は液体燃料ロケットを有する混合動力機を取り扱った。最後のPart3では『VRDK』と呼ばれるまた異なる方式のジェットエンジンを取り扱う。これ単体でも興味深いものだが、Part1・2で紹介したものの特徴と比較するのもまた面白いものだと思う。

「お前の文章読みづらいんじゃ!」とかいうことがなければ、是非ともそちらも読んでみて欲しい (本当に読み辛かったらごめんなさい)。


というわけで「液体燃料ロケット混合動力機編」を書き終えた感想ですが……今回はなんか結構シンプルでしたね、終わりの方を書いていてそう思ったんですが。これは混合動力機のエンジンがRD-1しかなかったこと、試作・計画機もそこまで多くなかったことからかなと。またジェットの時と違ってエンジンの仕組みまでは入れなかったので、その辺りの悩みもなかったですね。

唯一困ったのはSu-7の開発まわりくらい、他は手持ちの資料と露語のサイトを比べてクロスチェック掛けていくだけでよかったかなと。

話としてもシンプルなことが多く、時間こそかかったものの苦しさは前回の何分の一かなという感じでした。

 

さてこれで混合動力機記事を全て書き終えた(※)訳ですが、これからVRDKの記事をPart3に書き換えねばなりません。ちょっとしたら作業に着手しましょう。それではまた。

 

※:実は混合動力機記事シリーズは、VRDK (Part3)→PVRD/PuVRD (Part1)→ZhRD (Part2) の順で書いていたのである。理由は特になく、単に自分の書くモチベの関係で。


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<参考リスト>

より記載箇所が分かりやすいよう、機体ごとに分けてみました。見づらければ統合するやも。試験中。

=書籍=

【RP-218/318・SK-9】

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 80

◆RP-318|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/xplane/rp318.html

◆ロケット飛行機「RP-318-1」初飛行 (露)

http://www.famhist.ru/famhist/korol/0001a6da.htm

◆ORM-65|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9E%D0%A0%D0%9C-65

◆グライダー SK-9 (露)

http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/planery/1920-e-1930-e-gody/planer-sk-9/

 

【BI】

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

pp. 27-28

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume One: Single-Engined Fighters』 (1998)

p. 15

◆BI|Airwar.ru (露)

https://www.airwar.ru/enc/fww2/bi1.html

 

【302】

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 77

 

【Pe-2RD】

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume Two: Twin-Engined Fighters, Attack Aircraft and Bombers』 (1999)

pp. 127-128

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 149

◆Pe-2RD|Airwar.ru (露)

https://www.airwar.ru/enc/xplane/pe2rd.html

◆試作爆撃機Pe-2RD (露)

http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/eksperimentalnye-samolety/eksperimentalnyj-bombardirovshhik-pe-2rd/

 

【ヤコヴレフのPD-ZhRD:Yak-9案, Yak-3RD】

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume One: Single-Engined Fighters』 (1998)

p. 166, pp. 209-211, pp. 239-241

■『世界の傑作機 No.138 WWII ヤコヴレフ戦闘機』, 文林堂,(2010)

p. 30, 61

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 210

◆Yak-3RD|Airwar.ru (露)

https://www.airwar.ru/enc/fww2/yak3rd.html

 

【ラヴォチキンのPD-ZhRD:La-7R, 120R】

■『世界の傑作機 No.143 ラヴォチキン戦闘機』, 文林堂, (2011)

p. 17, 28

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 86

■『La 5/7 Fighters in Action』Hans-Heiri Stapfer, Squadron/signal publications (1998)

pp. 46-47

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume One: Single-Engined Fighters』 (1998)

p.58

◆La-7R|airpages.ru (露)

https://airpages.ru/ru/la7r.shtml

◆120R|ラヴォチキン設計局 (露)

https://www.laspace.ru/ru/company/history/aviation/120r/

◆120R|Airwar.ru (露)

http://www.airwar.ru/enc/xplane/la120.html

 

【スホーイのPD-ZhRD:Su-6, Su-7】

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume One: Single-Engined Fighters』 (1998)

p. 120

■『Soviet Combat Aircraft of the Second World War Volume Two: Twin-Engined Fighters, Attack Aircraft and Bombers』 (1999)

pp. 79-80

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

p. 156

◆Su-7 (初代)|Airwar.ru  (露)

https://www.airwar.ru/enc/fww2/su7.html

 

【その他】

■『第2次大戦 ソ連軍用機 [増補改訂版]』, ガリレオ出版, (2009)

pp. 166-167

■『ソビエト航空戦』, 光人社NF文庫, (2003/1999)

pp. 113-114

■『WWIIソビエト軍用機入門』, 光人社NF文庫, (2014)

pp. 225-226

■『ドイツ軍用機辞典 1930-1945』, 野原 茂, イカロス出版, (2022)

p. 200

◆GKO決議 №5946 (露)

https://rgaspi.kaisa.ru/victory/object/200145092_203233263

◆コロリョフ、セルゲイ・パブロヴィチ|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%9A%D0%BE%D1%80%D0%BE%D0%BB%D1%91%D0%B2,_%D0%A1%D0%B5%D1%80%D0%B3%D0%B5%D0%B9_%D0%9F%D0%B0%D0%B2%D0%BB%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

◆グルシュコ、バレンティン・ペトロヴィッチ|Wikipedia (露)

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%93%D0%BB%D1%83%D1%88%D0%BA%D0%BE,_%D0%92%D0%B0%D0%BB%D0%B5%D0%BD%D1%82%D0%B8%D0%BD_%D0%9F%D0%B5%D1%82%D1%80%D0%BE%D0%B2%D0%B8%D1%87

=ロケットについて=

◆「地球は人類のゆりかご」-ツィオルコフスキーが見た未来の宇宙開発-|SPACE Media
https://spacemedia.jp/entertainment-and-art/3040

◆ロケットの燃料は何でできているのですか?|ファン!ファン!JAXA!

https://fanfun.jaxa.jp/faq/detail/294.html

◆固体燃料と液体燃料で方式に違いがあるのはなぜですか?|ファン!ファン!JAXA!

https://fanfun.jaxa.jp/faq/detail/297.html