ソ連の混合動力機 Part3【VRDK編】


更新履歴 (内容に変化ないものは除く)

[2023/12/11] 混合動力機記事 Part3化のため一部書き換え・書き足し。
[2021/08/13] 新規作成。

『混合動力機』とは何か?これはPart1と2でも書いたが、個人的な考えとしては「飛行をするにあたり、2種類以上の動力を備えている航空機」とさせてもらっている。例えば、レシプロエンジンとジェットエンジン、レシプロエンジンとロケットエンジンなど、2種類のエンジンを備え飛行する機体たちのことだ。

 

混合動力機の具体的な例としてポピュラーなのは、レシプロとジェットを備えたものだ。アメリカにはライアン社によるFR ファイアボール、カーチス社のXF15Cなどがあり、前者については短期間ながら空母で実際に運用がなされている。

 

それでここまでいくつかの混合動力機について、「ソ連の場合どうだったか」「どのようなものが考えられ、そして作られたのか」という話を続けてきた訳だが、今回は『VRDK』と呼ばれるものに焦点を当てて話をしていこう。

◆レシプロを超える努力

Part1・2で紹介したあたりから軽く振り返ってみよう。

この辺りの事は手元の資料では情報が乏しく、あまり全体を把握できていないが、ソ連におけるジェットエンジンの歴史は、1929年にボリス・スチェッキンがジェットエンジン理論についての論文を発表したことから始まったとされるそうだ。1930年代に実際に各種ジェットエンジンの研究・開発が行われ始め、40年代にはいくつかのジェットエンジン計画が進行していた。だが、これらはそれぞれ異なった問題を抱えており、状況は芳しくなかった。

 

一つは『ラムジェットエンジン』、露語圏ではPVRD (露:ПВРД) と略して呼ばれる。メルクーロフの開発したDM-2ラムジェットエンジンがポリカルポフ I-15bisに装備され、1939年12月に飛行中の始動を成功させていた。しかしながら、試験によって確認された駆動時の速度増加は微々たるもので、ほとんどの効果はエンジン自体の空気抵抗と相殺されてしまっていた。しょせんは400~500km/h程度の速度で飛行する機体では遅すぎ、圧縮圧力が不十分だったのである。

 

もう一つは本命たる『ターボジェットエンジン』、こちらはTRD (露:ТРД) と略される。1937年よりアルヒープ・リューリカが開発に取り組んでいたが、高度な耐久性を要求されるタービン部がネックとなっており、高い出力を持つ実用エンジンの完成には遠かった [註1]

 

他には『液体燃料ロケットエンジン (ZhRD, 露:ЖРД)』の開発も進んでいたが、推進剤の取り扱いが難しく、パイロットの安全性が危険視されていた。ベレズニアク・イサエフ BIを始めとして複数のロケット機が試作され、結局戦後のI-270まで研究は続けられたが、この問題は最後まで付きまとった。

いまだレシプロエンジンは発展し続けており、主力戦闘機の速度は向上しつつあるが、既にその限界を迎えることは航空技術者の誰もが理解していた。レシプロを超える新たなエンジンは必須なのだ。だが先述の通り、ロケットは危険性が高い。ターボジェットは当面完成する見込みがない。ラムジェットは比較的安全だが、現行の機体にそのまま装備しても効果が薄い。

 

そこで中央航空力学研究所 (以下TsAGI, 露:ЦАГИ) のゲンリフ・アブラモヴィッチが考えたのが、新たなジェットエンジン方式―『VRDK』であった。


[註1]:既に出力が低いターボジェットエンジンは完成させており、より強化したRD-1 (同名のロケットエンジンとは関係ない) というものを70%まで完成させていた。しかしドイツ侵攻の影響で中断、部品を土中に埋め避難せざるを得なかった。その後リューリカは一時戦車のダクト設計に携わったのち、再びジェット開発に戻り作業を再開したが、結局戦中には完成しなかった。ただ、45年3月に地上試験用のS-18ターボジェットエンジンを披露し、これを航空機搭載用にしたTR-1が1946年に完成している。

◆VRDK

ターボジェットエンジンは、ジェット噴射のエネルギーの一部をタービンで回収して圧縮機を回している訳だが、高い熱と噴流に曝され続けるこの部位の開発は困難であった。一方ラムジェットエンジンは、空中での動作こそ上手くいっていたが、レシプロ機の飛行速度では空気の圧縮が不十分で、機外にあるエンジン自体の空気抵抗で殆どの推力が相殺されてしまい、大した増速効果が見られなかった。

前者はタービン、後者は圧縮に問題がある。ではタービンによる自己完結を諦め、圧縮機は既に実績があるレシプロエンジンで回転させて空気圧縮を行うことで、安全なジェットエンジンを実現出来るというのが、『VRDK』の考えであった。

つまるところVRDK (露:ВРДК) とは、レシプロエンジンの動力を使って圧縮機を回すジェットエンジン、いわゆるモータージェットに分類されるものだ。これはほぼイコールと考えてよいと思うが、参考としたものによっては「VRDKは独自性があるものであり、他国のモータージェットと同一視すべきでない」としているものもあった (後のVRDK計画機を見ると一理あると感じるものがあった)。

残念ながら筆者はジェットエンジンという物に詳しくはなく、また広義のモータージェットには違いないだろうということで、次の話に進ませてもらおうと思う。

当時イタリアでは既に、モータージェット機であるカプロニ・カンピーニ N.1が飛行していたが、この機体の情報がソ連―TsAGIに伝わったのは1943年のことだった。ソ連版モータージェットたるVRDKは、独自の発想で生まれたものだった (勿論N.1の存在が知られてからは研究対象となっている)。

ゲンリフ・アブラモヴィッチはVRDKの研究について論文にまとめ、中央航空エンジン製造研究所 (以下TsIAM, 露:ЦИАМ) で発表を行った結果、これは大きな関心を引いた。これによりTsIAM所長のウラジミール・ポリコフスキーによって、コンスタンチン・ホルシシェヴニコフ [註2] 主導の特別な設計局が設けられ、VRDKエンジンの開発が始まった。


[註2]:国内において'Холщевников'の名は殆どの場合「ハルシチョフニコス」と書かれているが、こちらの方が近いのではと思い、今回は「ホルシシェヴニコフ」と表記してみた。少なくとも ’~ников’ は「~ニコス」ではなく「~ニコフ」という読みになるだろう。

TsAGIのVRDK計画機

TsAGIでも引き続きVRDKについて研究が行われ、VRDKを採用した機体がいくつか考案された。それらは既存機をベースとしたものと、完全新規設計のものがあった。

既存機ベースのプロジェクトとしては、まずヤコヴレフ Yak-9への搭載が考えられた。胴体の鋼管構造を一部変更し、後部下面にインテーク, 圧縮機, 燃焼室を設けることで、VRDKに対応させるというものだった。プロペラと圧縮機を回すためのエンジンには、クリーモフ M-105RYeN (露:М-105РЕН) という特殊なものを選んだ。これは元々Pe-2で試験が行われていた「エアクッション式降着装置」[註3] の為に開発されたものだった。動力の一部がシャフトを通してファンに接続され、エアクッションを膨らませられるように改造されていた。この計画では、クッションを膨らませるファンの代わりに、VRDKの3段軸流式圧縮機を回転させるわけだ。既存の機体と別プロジェクトで開発済みのエンジンを用いるという省エネな発想であったが、残念ながらそう上手くはいかなかった。

試算の結果、新たに設けられた突出部の空気抵抗もあり、Yak-9VRDKはクリーンなYak-9と比較して80km/hの増加としかならなかった。そのうえ、動力を圧縮機に繋げる中間ギアボックスがモーターカノンと干渉する位置にあり、20mm機関砲が装備出来なくなった。増速効果が弱く、火力も大幅に低下していたので、この案は失敗とみなされた。

完全新規なプロジェクトとしては、1943年3月に発表されたS-1VRDK-1S-2VRDK-1があった。これらはレシプロエンジンを搭載しながらプロペラを持たないという、非常に特異な外観を持っていた。

まずS-1VRDK-1はその名の通り、VRDKを1基備えた戦闘機だった。主エンジンは、La-5などが搭載したシュヴェツォフの空冷星形エンジンM-82が選ばれた。これは胴体前半部の中ごろに配置され、プロペラに代わってエンジン前方に装備された、直径1,300mmの4段軸流式圧縮機を回転させるためだけに使用されることになっていた。最高速度は高度7,500mで820km/hに達するとされた。

もう一つのS-2VRDK-1は、レシプロエンジンとVRDKを2つずつ備える双発VRDK機だった。S-1VRDK-1は胴体内にこれらを収めていたが、こちらはエンジン, 圧縮機, 燃焼室を一つにまとめて、左右の主翼下にぶら下げるような形態をとっていた。見た目は双発機と似通っているが、レシプロエンジンを収めているため、胴体より太いアンバランスなシルエットとなっている。当初の案では空冷のM-82エンジンであったが、第2案ではより高高度に強いミクーリンの液冷エンジンAM-39Fを搭載。最高速度はS-1VRDK-1を上回る850km/hとしていた。

pic01 (左/上):S-VRDK-1の図面、筒状の胴体とプロペラが無いところにカプロニ機との類似性を感じる。
Photo from:http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1940-e-1950-e-gody/istrebiteli-drugih-konstruktorov/proekty-istrebitelej-perehvatchikov-s-1vrdk-1-i-s-2vrdk-1/
pic02 (右/下):VRDKを双発とするS-2VRDK-1案、胴体より太い翼下ポッドにはレシプロエンジンとVRDKが収まる。
Photo from:http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1940-e-1950-e-gody/istrebiteli-drugih-konstruktorov/proekty-istrebitelej-perehvatchikov-s-1vrdk-1-i-s-2vrdk-1/

興味深いのは、これらの機体はプロペラが無いにもかかわらず、燃焼室を使用せずとも飛行が可能とされていたことだ。圧縮機で圧縮された空気は、その後ろに配置されているレシプロエンジンの高い熱に曝され、それに加えてエンジン排気の熱も加えられることで、飛行に十分な噴流を発生させるというものだった。これについては、類似した設計をもつプロペラのないカプロニ機も燃焼無しの飛行が可能であり、この点については決して夢物語などではないだろう。S-1VRDK-1は、1回の飛行におけるVRDKの燃焼時間を15~20分以内にとどめることで、滞空時間を3.5時間にまで延長させることが出来た。これはターボジェット機に対するアドバンテージであった。

S-1VRDK-1及びS-2VRDK-1は、先進的かつ意欲的なアイデアであったが、どちらも試作には進まずプロジェクトのまま終わった。

ユニークなものとしては、チャロムスキーのACh-30ディーゼルエンジンとVRDKを組み合わせた、VRDK高高度偵察機というアイデアもあった。巡行時は機首のACh-30が回すプロペラで飛行し、緊急時にはエンジン排気を翼下に設けられたジェットエンジンに導き、この排気は圧縮機を駆動させるタービンを回転させる作りとしていた。この機体は、他のVRDK機が必要とする、レシプロエンジンと圧縮機を繋ぐシャフトやギアボックスが不要で、圧縮機の回転にタービンを使用するなど、VRDK計画機の中でも特異な設計となっていた。

TsAGIにおける最後のVRDK機プロジェクトは、ラヴォチキン La-5にVRDKを組み込むものだった。Yak-9では胴体後下部にインテークと圧縮機、そして燃焼室を設けていたが、La-5VRDKはほぼ胴体内に組み込むスタイルとなった。変更点はFw190の強制冷却ファンの様な位置に1段圧縮機を設けたことと、ダクトを設け内部に燃料噴射装置と点火プラグを追加したこと、胴体後部下面にジェット用ノズルを設けたことなどがあった。

44年にアブラモヴィッチがTsAGIを離れた (NII-1の副所長に任命された) ことで、TsAGIにおけるVRDKの主な作業は終了、La-5VRDKも計画のまま終わった。

この他にも、様々なレシプロエンジンとVRDKを組み合わせた多様な計画機が考えられたが、どれとして試作には入らなかった。

 

ここまでVRDKを含むジェット/ロケットエンジン、及びそれを搭載する航空機の研究・開発優先度は、現行のレシプロエンジンとその搭載機に比べ低く設定されていた。だがそんな状況を一変させる事態が起こった。


[註3]:エアクッション式降着装置とは、TsAGIのA. D. Nadiradzeが1940年に考案した、いかなる不整地、雪上、水上ですら離着陸が可能な新たな降着装置だ。底面にソリが付いたゴム製のクッションを膨らませ、これを降着装置とすれば、先に書いたような地形でも離着陸出来るだろうというものだった。これは単なるアイデアに止まらず、実際にヤコヴレフ UT-2を改造したUT-2N (NはNadiradzeから) を使い、不整地での離着陸対応力を実証してみせた。

その後実用機で検証せよとなり、Pe-2で試験するにあたり作成されたのがM-105RYeNだった。

◆対ジェット戦闘機開発命令

1944年の初頭、クレムリンに一つの知らせが入った。それは米英独のジェット機開発が活発に行われている [註4] というものだった。実際、各国のジェット機はとうに初飛行を終えており、Me262とMeteorに関しては実戦投入の段階に進みつつあった。

彼らは危機感を覚えた。冒頭で述べた通り、ソ連では各種ジェットエンジンの研究が行われていたが、その殆どはいまだ実用の域には達していなかった。じきにレシプロ機の性能向上に限界が訪れることは、30年代には既に予見されていたことだったが、彼らはまだ注力する時ではないと考えていた。その為、TsAGIやTsIAMなどで研究が行われていたものの、主要な設計局でのジェット機開発は指示していなかった。

しかしそれは誤りだった。こうしている間にもドイツはジェット機の実戦投入を進めていて、いつそれが戦場に繰り出されるか分からない。もしそうなった場合には、100km/h以上の速度差がある自国のレシプロ機では、到底対抗できないだろう。

 

彼らはすぐさま各航空機設計局へジェット戦闘機設計を始めるよう指示を下し、1944年5月22日のソ連国家防衛委員会 (GKO, 露:ГКО) 決議第5946号により、具体的な新型戦闘機の開発が指示された。ヤコヴレフとラヴォチキンには、既存機Yak-9とLa-5をベースとした、RD-1ロケット増速装置付き混合動力戦闘機。ポリカルポフには、新型ロケットエンジンを搭載したロケット推進戦闘機。そしてスホーイ、ミコヤンおよびグレヴィッチの設計局には、VK-107エンジンとVRDKを用いた、レシプロ・ジェット混合動力戦闘機の開発が指示されたのだった。


[註4]:この辺りは資料によって書き方が異なり、「ドイツのジェット機開発の情報が入った」「米英連合国から自国のジェット機開発の情報が伝えられた」「米英政府がジェット機の保有を発表した」「英独でジェット機開発が活発に行われていると情報が入った」などバラバラだった。恐らくは、米英との情報交換の場が設けられた際に、自国とドイツのジェット機開発について情報開示がなされたのではないかと思うが……情報交換ではなく諜報活動かもしれない。何にせよこの時ソ連はジェット戦闘機が無いとマズいとなったのは確かだ。

◆複合エンジン E-30-20

アブラモヴィッチの影響により1942年に始まった、TsIAMでのホルシシェヴニコフ主導によるVRDKの開発は、ある一つの新型エンジンとして結実した。それが複合エンジンE-30-20である。

E-30-20 (露:Э-30-20) は、クリーモフの液冷V型12気筒エンジンVK-107RとVRDKを組み合わせたものである。VK-107R (露:ВК-107Р) は、Yak-9Uなどに装備されたクリーモフ系の新型エンジンVK-107Aの派生型だ。離昇出力は1,650hpで、基本的にはVK-107Aと同じだった。違いは、エンジン後部からシャフトが伸びており、これが2速ギアボックスを介して1段式軸流圧縮機と接続されているというところだ。Yak-9VRDKが搭載を検討していたM-105RYeNは、「2本のシャフトを繋ぐ中間ギアがエンジン後部にあり、モーターカノンと干渉してしまう」という欠点があったが、こちらはその点問題がなく使用出来た。

E-30-20複合エンジン、右が1段圧縮機 (Photo from: http://airwar.ru/enc/fighter/mig13.html)
E-30-20複合エンジン、右が1段圧縮機 (Photo from: http://airwar.ru/enc/fighter/mig13.html)

E-30-20におけるVRDKの運用についてだが、これは他のVRDKと同じく常用される装置ではなく、時限式の増速装置であった。離陸と巡行中は、短距離離陸と燃料の節約を目的として、機首に備わるレシプロエンジンによって駆動するプロペラ推進で行われた。

VRDKの圧縮機は、使用時に初めて回転が始まるかのような説明がなされていることがあるが、実際には非使用時は最も低いギアで回転している。もしもこれが回転していないとすれば、VRDKのダクト内―圧縮機と燃焼室の間に配置された主冷却器への冷却空気の流入が阻害されてしまうことになる。そうなれば、ただでさえ過熱が問題となっていたVK-107の冷却は、到底追い付かないものとなるだろう。

VRDKを使用する際には、クラッチを切り換えることでギアが二速に切り替わり、後部燃焼室で圧縮空気へ燃料の噴射が開始され、スパークプラグによって点火される。高速ガスは可変ノズルを備えた尾部から噴射されるようになっており、流量を調整可能だった。

VRDK使用時、E-30-20全体の出力は高度7,000mで2,500hpとなり、そのうちの1,350hp分はVRDKが担っていた (VK-107Rの出力の一部は圧縮機を回すためにロスしている)。使用可能な時間は最大10分とされた。

pic03:スホーイ I-107の内部図。機首インテークから尾部までが1本のダクトで繋がり、その中に圧縮機, 主冷却器, 燃料噴射器が配置されているのが分かる。ミグのI-250もこれらの配置は殆ど同じだ。
Photo from:
http://www.airwar.ru/enc/fww2/su5.html

◆ミグ I-250とスホーイ I-107

ドイツ機が繰り出してくるであろうジェット機に対抗すべく、ミコヤン・グレヴィッチ (以下ミグ) とスホーイでVRDK搭載機の開発が始まった。それぞれに出された主な要求性能はほぼ同じで、最高速度800km/h (VRDK使用時)、上昇時間は5,000mまで4.5分 (VRDK使用時)、上昇限度は1,2000m (VRDK使用時)、そして武装は23mm機関砲1門と12.7mm機関銃2挺といった具合だった。

ミグはI-250、そしてスホーイはI-107と呼ばれる機体を設計し、承認を受けて製作に入った。これらは同じ複合エンジンE-30-20を採用し、これ自体が胴体内の大半を占める事もあり、非常に似通った設計となっていた。どちらも機体構造は全金属製で、翼は層流翼を採用、そして武装にモーターカノンを採り入れているところも両機の共通点であった。また、TsAGIのVRDK計画機には、エンジンの熱や排気を利用するものがあったが、両機はラジエーターの熱のみ取り入れていた。

似通っている両機の差異をいくつかピックアップしてみよう。

オイルクーラー

I-250のオイルクーラーは、VK-107Rの減速ギアに被さるように置かれていた。機首上部にあるカウルフラップは、オイルクーラー用のものだ。

一方I-107は、オイルクーラーを左主翼の内側に埋め込み、翼前縁のスリットから空気を取り入れて、翼下面に冷却空気を排出する設計だった。I-107とI-250の一番の違いはこのオイルクーラーの配置かもしれない。

燃料タンク

I-250は、胴体内コクピット前に390ℓタンクが1つ、そして翼内に90ℓの燃料タンクを左右各1つずつ、計3つの燃料タンクがあり、計570ℓとなっていた。

I-107の燃料タンクは諸説あり、メインとサブ1つで計2つとするものと、サブが2つで計3つとするものがあった。少なくともコクピットの背後に大型タンクが一つ、サブが右の翼付け根に配置されていた。先述の通り、左翼付け根にはオイルクーラーが収まっている為である。計3つとする資料では、胴体と左主翼のオイルクーラーの間に小さいタンクがあるとしていた。それぞれのサイズは分からなかったが、合計は656ℓであるそうだ。

武装

要求では、23mm機関砲1門と12.7mm機関銃2挺とするとされたが、I-250はモーターカノンとして20mm機関砲 B-20を装備、また機首下部にはプロペラ同調型であるB-20Sを2門、計3門の20mm機関砲を備えていた。投射量がこれと同等、もしくはそれ以上であれば問題が無いということだろうか。弾数はそれぞれ100発、計300発搭載している。要求と異なる火器選定理由は見つからなかったが、図面ではモーターカノンのB-20尾部と胴体燃料タンク前面が接するほど近く、またコクピットが尾翼近くに下げられていることを鑑みるに、燃料スペースの確保のためであるかもしれない [独自研究]。

I-107は要求の通り、モーターカノンとして23mm機関砲NS-23を装備、加えてUBS 12.7mm機銃 2挺を備えていた。弾数はNS-23が100発、UBSは各200発とされる。

以上がI-250とI-107の主な違いであった。他にもプロペラ (3枚翅3.1mと4枚翅 2.9m)、尾部ノズル形状の違いなどもあるが、それ以外はさしたる差は無かった。

それぞれの機体の話に入ろう。

ミグ I-250の試作1号機 N-1 (Nは局内名称から) は、1945年の2月26日に完成したが、この時はまだVRDKを装備していなかった。初飛行日は同年3月3日、もしくは4月4日に行われたとされる。4月8日には初めてVRDKを使用しての試験飛行が行われた。その後VRDKのトラブルに悩まされながらも、7月3日の飛行では高度6,700mにて820km/hに達した (資料によっては7,000mで825km/h)。これは当時のソ連主力戦闘機より100km/h以上優速で、それまで試作ロケット戦闘機 BI-1が保持していた800km/hという最高速度を塗り替え、当時のソ連最速の航空機となった。

しかしその2日後、7月5日の試験中に左水平尾翼が破損し、パイロットは脱出したが低空だったことでパラシュートが開かず、パイロットは死亡した。原因は、低空での機動時に耐荷重制限を超えたためであった。

pic04 (左/上):I-250 試作1号機、この角度だと顎ラジエーター搭載機と言われても分からないをしている。
Photo from:http://airwar.ru/enc/fighter/mig13.html
pic05 (右/下):試作1号機を斜め後ろから見たところ、尾部からジェット噴流が放出される。
Photo from:http://airwar.ru/enc/fighter/mig13.html

N-1は失われたが、2号機 N-2は5月に完成しており、5月26日には初飛行していた。N-1の事故から水平尾翼が強化され、その他問題点への対応をしながら試験を続けていた。エンジンの故障、圧縮機のトラブル、オイルクーラーのオイル漏れで度々試験は中断された。

1946年7月12日、N-2はエンジン出火により不時着した。損傷は大きいが修復可能と判断されるも、既にその時にはI-250の少数生産が決定されていたため、そのまま廃棄されることとなった。

少し時を戻して1945年7月27日、I-250は受け入れプログラムの完了を待たずして、少数の生産が決定された。それはこの機体がレシプロ機からジェット機への機種転換訓練機として使えるのではないかという考えによるものであった。

生産は第381工場に割り当てられ、12月までに計10機を生産するスケジュールであった。しかし、この工場は主に木製構造のLa-5F/FNやLa-7を生産していた工場であり、全金属製かつ新たな要素を持ったI-250の生産に苦戦。また、同時にラヴォチキンの試作ジェット戦闘機La-150の生産工場としても指定されていたため、それも作業を圧迫していた。またこれらに必要なE-30-20の生産に手間取ったことも遅延の原因となっていた。

作業の大幅な遅延により、納入完了は1946年10月となった [註5]。これらの機体は、La-7での十分な飛行経験を持つ第176親衛戦闘航空連隊 (176 GvIAP) に引き渡された。彼らはあまりI-250のことを良く思わず、エンジンが離陸重量に対しアンダーパワーであること、離着陸の安定性が悪いこと、ブレーキ性能が不十分なこと、VRDKの使用可能時間が短いことなどを挙げていた。

さらに、この頃にはターボジェットエンジンが成熟しつつあったこともあり、空軍はI-250への興味を失っていた。結局、レシプロ戦闘機の後に採用された戦闘機は、ターボジェットを搭載した機体―MiG-9とYak-15になったのであった。

空軍が興味を失った後は、今度は海軍航空隊へと売り込むこととなった。海軍の戦闘機は一定の航続距離が求められるため、当面は燃費に優れるモータージェット機が選ばれると見込んでのことだろう。1947年9月19日、海軍向けに燃料搭載量を38%増加した機体がリガの海軍飛行場に運ばれ、48年まで試験が行われた。結果は芳しくなく、整備性に難があることなどが指摘され、その他欠陥を取り除くには時間を要するとして結局採用には至らなかった。既にMiG-15の実用化が近い時期であることを考えれば、当然の判断であろう。こうして空軍・海軍共に不採用となり、I-250開発計画は終了した。

 

最後に機体名についても話しておこう。

I-250はしばしば”MiG-13”と書かれるが、近年研究家が調査した結果、書類上でMiG-13の名が使われた形跡は確認出来なかったという。この時代のソ連機に関しては、後世の人物が空き番号を元に名称を推測したものが事実として書かれていることがあり、”MiG-13”もそうした根拠のない推測によるものかもしれない [註6]

長々とI-250の話が続いたが、スホーイ機の話もしよう。

pic06 (左/上):試験を受けるI-107、右主翼付け根のスリットはオイルクーラー用冷却空気取り込み口。
Photo from:http://airwar.ru/enc/fighter/su5.html
pic07 (右/下):コクピット後部に見えているのは、燃料タンクの上部。またI-250と異なる尾部ノズルの形状にも注目。
Photo from:http://airwar.ru/enc/fighter/su5.html

スホーイのI-107は、1945年4月6日に初飛行を行った。試験飛行においては793km/hを記録し、機動性などはI-250と同程度であることが確認された。1945年7月15日 (6月15日とするものもある) にメインのVK-107Rが破損、スペアのエンジンに換装し試験を続けたが、10月までには耐用限界時間を迎えた。新たなエンジンを待つ間試験は停止し、その間にI-107がI-250に勝るところが無いと判断されたため、不採用に終わった。

 

I-107は2機製作されたが、2号機は風洞試験に用いられた後、飛行することは無かった。風洞試験ではダクト設計の欠陥を発見するなどしたが、結局これらが活かされることは無かった。

こうして2つのVRDK搭載戦闘機プロジェクトは終わり、以後VRDKを搭載する航空機の開発は行われなかった。


[註5]これにより生産管理者などが拘束されている。またホルシシェヴニコフらエンジン生産の関係者も叱責され、以後担当はクリーモフに交代となった。

[註6]:例えば、LaGG-1/3の原型機の名前はI-22とする説があったが、これは実在しない名称であった。この時期の試作機に、パシーニンのI-21やヤコヴレフのI-26 (Yak-1) などがあることから、その間にLaGGの原型があったと考えたのだろう。このような例は他にも多くあることと思われる。I-220シリーズの'MiG-7'や'MiG-11'もそうではないだろうか。

◆結局VRDKとは何だったのか

さて、ここまでおおよそ九千文字かけてVRDKの話をしてきたが、これほど長い話をして結果は「採用機無し」という、なんともなオチである。計画された機体の殆どは紙の上にしか存在せず、試作された機体も採用されず、活躍の場もなく終わった。ただのレシプロ機ではなく、かといって純粋なジェット機でもない、中途半端な「ハーフジェット」。それがVRDKであった。

 

では、TsAGIとTsIAMの専門家らが心血を注いだVRDKは、貴重な開発リソースを無駄に浪費しただけの、意味のないプロジェクトだったのだろうか?

 

筆者の意見としては、否である。これらの機体は、ソ連で最初に全力運転がなされた圧縮機付きジェットエンジン搭載機となり、またロケット機の次に時速800km/hに到達し、それを超えてみせた機体でもあった。確かにVRDKは最終的にターボジェットエンジンに追い付かれ、次期主力として採用されたのもターボジェットのMiG-9とYak-15である。だが、ドイツから先進的なジェットエンジン技術が得られたと言っても、エンジンがあるだけでは優れたジェット戦闘機は作ることが出来ない。

一応ジェット機ということであれば、ラムジェットやパルスジェットを搭載した機体がVRDKよりも前から飛行試験を行っている。だがこれらはエンジンポッドを翼下にぶら下げただけの代物だ。機内にジェットエンジンを埋め込み、ダクトを通して吸気・噴射する先進的なジェット推進機は、これがソ連で最初の機体だったのだ。

この機体とエンジンで培われた経験は、間違いなくその後のジェット機開発に活かされたことだろう。I-107の項でも設計上の欠陥を見つけているし、他にもそうした大小の学びがあったのではなかろうか。ジェットの分野が遅れていたソ連においては、これだけで十分にその役割を果たしたのではないかと思う。

 

単なる面白航空機・失敗したプロジェクトとして紹介されがちだが、上記の様な目で見るに値する機体であると、個人的には感じた。とはいえ、この計画自体の結果が散々であったことは否めず、全てにおいて擁護出来る訳ではないのも確かだ。

 

何にせよ、読者のVRDKに対する理解が深まり、認識も改まるところがあれば幸いだ。


◆混合動力機というもの

(2023/12/11:Part3改修に際し追加)

という訳でPart1から3にかけて、ソ連で開発されていたジェット・ロケットなど数多の『混合動力機』たちを紹介してきた訳だが、それらはどういうものだったのだろうか。

 

言ってしまえばこれらは、満足のいく純粋なジェット動力機が作れなかったことによる"妥協の産物"でしかなかった。やはり一番良いのはターボジェット機であり、いくらレシプロ機にジェットエンジンをブースターとして装着しても、それに並ぶことすらかなわない。

ロケット機にしても同様で、レシプロ機に液体ロケットブースターを装着すれば高い速度・上昇性を付与させられるが、基本的には純粋なロケット機には劣るものにしかならない (航続距離・滞空時間だけはこちらが有利となるため、少し事情は異なるが……)。

 

そもそもとして、考えてみれば当たり前だが……レシプロエンジンを持つ混合動力機とは、常に一方がもう一方の動力の足を引っ張り合う関係にある。ブースター側の動力を使っていない間、ラムジェット/パルスジェットは機外に懸架したエンジンが大きな空気抵抗になるし、尾部の液体ロケットもただのデッドウェイトでしかない。そしてブースターを使用中は、レシプロエンジンとプロペラが足を引っ張ることとなる。当然ながら「レシプロエンジンが発揮できる性能を超える領域」では、レシプロエンジンはお荷物となるわけだ。

混合動力機は純粋なジェット機・ロケット機には逆立ちしても敵わないのである。

 

ではこれらの開発は完全に無駄だったのだろうか?と問われれば……上のVRDKの項の最後でも書いたが、戦後に本格的に開発される新世代のジェット戦闘機開発の"予習"としては、十分役に立ったのではないだろうか。TsAGIもTsIAMも各設計局も含めて、戦後もたらされたドイツからの技術・情報だけでは、いきなり米英等が既に実用化していたジェット機に比肩する機体を開発することは難しいだろうと思う。

 

そしてまた、これらが作られることになったのは、純粋なジェット機やロケット機……もしくはその心臓たるエンジンが作れなかったためだ。彼らは「ターボジェット機が作れるまではレシプロ機だけで戦う」ことを選ばず、「純粋なジェット機には及ばなくとも、レシプロ機以上の性能を出せる混合動力機で戦う」という現実的な選択をしたのだ。対独戦の状況を考えれば「繋ぎとしての混合動力機」は妥当な考えだろう。個人的にはこの辺りソビエトらしいなと感じるところがある。

 

まぁどれも間に合わなかった、そしてすぐに要らなくなってしまったのではあるが……それもまたターボジェットの実用化と機体の開発が上手くいったからで、ソビエトにとってはそれは良かったことなのではないだろうか。


↓本記事がPart3化される前、最初に書き上げた時の感想

そんな感じで、2021年2個目の記事『ソ連の混合動力機 VRDK編』でした。混合動力というか、実質VRDKの記事だったね。他の混合動力機 (PVRDとかPuVRDとかZhRDとか) もそのうち書く予定。

 

 

えーそして2023年12月10日、やっーーーとPart2の方が完成しましたね。私はなんで最後のVRDK編から先に書いたんでしょ。モチベがあったから?そうだね。お陰で余計な手間がかかったりしましたけども。

とはいえ完成したのでヨシとしましょう。

 

専門外 (別にレシプロなら分かるわけではない) な領域を扱うことに不安を抱えながら、ジェットやロケットの分野をつまみ食いしてみましたが、指摘等あればTwitter (Xとは呼ばぬ) でも何でも送れるフォームからでもお気軽にお問い合わせください。大歓迎です。

 

あとは、このシリーズで戦後ジェットが生まれる前に開発されていた機体に興味を持つ方が増えてくれたらいいなぁ……と。ソ連のジェットと言ったら9割5分は冷戦とかそれ以降ですからね。

一人で壁打ちの様なツイートをしているのも寂しいのでね、この辺の機体の話をする人が増えて……ゆくゆくはこれらの機体を取り扱う本も増えたらいいなぁ。

(ここが最後)



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コメント: 1
  • #1

    キンギョ (日曜日, 19 9月 2021 12:23)

    VRDKが他の混合動力機と違うところって、多分、ジェットエンジンの圧縮機を作動するのに飛行用のレシプロを使ってるところだと思うんですよね。他のファイアボールとかって、調べた限りただレシプロにジェットエンジンを組み合わせてるだけで、2つのエンジンに構造上の繋がりが(多分)無いんですが、VRDKは、混合動力であるにもかかわらず、2つのエンジン、レシプロとモータージェットの間に、圧縮機という繋がりがある。ジェットエンジンがレシプロエンジンに従属するような形で動くって所が特殊だと思うんです。
     モータージェットは、あくまでそれで1つのエンジンであって、レシプロエンジンの部分は直接飛行には関与しませんから、混合動力とはいえないですし(モータージェットはダクテットファン効果による推力が主になることもあるから、レシプロが直接推力を生み出すと言うこともできるが、それはあくまで結果論)

     あと、この手の混合動力機の中ではトップクラスの速度を持ってるってのもすごいですよね。ウィキペディキュア曰く、
    「排気ダクトから得られる推力のうち半分程度は圧縮機の羽根車がプロペラと類似の働きをして生み出すものであり、実際はダクテッドファンエンジン的な傾向もかなり強かったのではないかと言われている。またジェット噴流は機体の速度より若干速い程度がもっとも効率が良いため、レシプロ機と同程度の速度ではむしろダクテッドファンエンジンの流速を無駄に上げて効率を低下させているとすら言える。」
    とのことですけど、時速800出たなら、これはジェット噴流の効果がバンバンに出てたって事ですし。
    「ジェット要らなくね?レシプロで良くね?」ってなる奴が多かったこの時代、ちゃんと要求性能を満たした独想的ヘンテコ飛行機ってだけで十分な存在価値があるなと感じました。(あ、しまった。評価送る時に書けばよかったなこれ)


<参考リスト>

=書籍=

■『世界の傑作機 No.156 第二次大戦ミグ戦闘機』, 文林堂, (2013)

P.73-74, 80-81

■『Early MiG Fighters In Action』, Squadron/signal publications (2006)

P.33-35

■『Yakovlev Fighters of World War II』, Hikoki Publications, (2015)

P.208

■『Soviet X-Planes』, Midland Publishing, (2000)

P.94, 155

 

=Web=

◆MiG-13 (I-250)|airpages.ru (露)

https://airpages.ru/ru/mig13.shtml

◆I-250 (MiG-13)|Русский Портал (露)

http://opoccuu.com/mig-13.htm

◆the forgotten MiG-13|wwiiafterwwii (英)

https://wwiiafterwwii.wordpress.com/2017/08/20/the-forgotten-mig-13/

◆1945年3月3日、モーターコンプレッサーエンジンを搭載したI-250(MiG-13)の初飛行|TsIAM (露)

https://www.ciam.ru/about/history/march-3-the-first-flight-of-the-fighter-i-250-mig-13-/

◆第二次世界大戦のジェット機|ВикиЧтение (露)

https://history.wikireading.ru/264147

◆知られていないジェットまたはモータージェットエンジン計画の例 (露)

http://avia-simply.ru/motokompressornij-dvigatel/

◆戦闘機迎撃機 S-1VRDK-1およびS-2VRDK-1プロジェクト (露)

http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/istrebiteli-2/1940-e-1950-e-gody/istrebiteli-drugih-konstruktorov/proekty-istrebitelej-perehvatchikov-s-1vrdk-1-i-s-2vrdk-1/

◆«Полуреактивные» истребители ЦАГИ|alternathistory (露)

http://alternathistory.com/polureaktivnye-istrebiteli-tsagi/

◆国防委員会決議№5946|РГАСПИ (露)

https://rgaspi.kaisa.ru/victory/object/200145092_203233263