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開発国以外で運用された機体というものは、第二次世界大戦において数多く存在した。レンドリースや支援のため供与された機体、輸出型として作られ購入された機体、ライセンス生産された機体、鹵獲・接収され運用された機体など、理由は様々だ。第1回のフィンランドと第2回のルーマニアは「鹵獲」された機体を取り上げたが、今回は「ライセンス生産」と「供与」がメインとなる。
チェコスロヴァキア空軍―日本においては、いわゆる『マイナー空軍』にカウントされるであろうこの組織は、当時数少ないソ連製航空機を一定数、それも正規に運用した空軍の一つであり、また”あるソ連機”を戦中唯一運用した空軍でもあった。
その”あるソ連機”についての話に入る前に、チェコスロヴァキアの航空産業と、もう一つのユニークなソ連機の話をしたい。
◆チェコスロヴァキアの航空産業と機材更新の動き
チェコスロヴァキアは航空工業が栄えた国の一つであり、アヴィア、アエロ、レトフ、プラガ、ベネス・ムラツなど、多くの航空機関連会社が存在した。
有名な国産機といえば、アヴィアのB-534が挙げられるだろうか。B-534は1930年代―複葉戦闘機の時代の後期に開発された機体の一つだ。1937年夏に開催されたチューリッヒ国際飛行大会において、複葉機の中では最も高い成績をおさめた経歴もあり、その性能は決して侮れないものだと言えよう。(なお、トップはBf109である……) チェコスロヴァキアの生産した機体で最多となる600機程が生産されており、第二次大戦中は他の枢軸国でも用いられた。
40年代に差し掛かる頃までの間、彼らは他にも様々な機体を開発し生産・配備を行っていたが、これらの大半は単発機であった。またその多くは羽布張りであったり、固定脚であったりと、時が経つにつれ旧式さが否めない状態にあった。
こうなれば当然、古くなった機材を更新するしかない。単発機に関しては国内技術で問題ないと判断したのか、近代的な単葉戦闘機(アヴィアのB-35, B-135など)の開発に着手するなどし、機材の更新に努めた。一方で双発機クラスに関しては、外からの新たな技術を求めてか、国外の機体のライセンス生産権を購入し、生産に取り掛かった。
この時、新たな爆撃機として選ばれたのは2機で、1機はフランスのブロッシュ MB.200、そしてもう1機が、ソ連の開発したツポレフ SBであった。
◆ツポレフ SBとアヴィア B-71
1937年、チェコスロヴァキアはソ連との交渉により、自国のスコダ社が開発した”C-5” 75mm山砲と”R-3” 75mm対空砲の製造権と引き換えに、ツポレフの高速爆撃機SB (露:СБ)の製造権を得た。
チェコスロヴァキアで生産されるSBは、B-71と名付けられた。生産はアヴィア社が担当し、通信機器や武器、その他装備品は自国製のものへと置き換え、エンジンもプラハのCDK社によるイスパノスイザ12Ydrsの搭載を搭載する予定であった。武装については、もともとShKAS (露:ШКАС) 7.62mm機銃であったものをZB vz.30 7.92mm機銃へと置き換え、オリジナルでは連装であった機首銃座も単装となっていた。
チェコスロヴァキアは、アヴィア社による161機のライセンス製造の前に、61機のオリジナルの購入も決めていた。1937年4月末には最初のSB 2M-100A (2はエンジン数、M-100Aはエンジン名を意味する。詳細はこちら⇒[命名規則]) が到着し始め、テスト等が実施された。翌年3月にはこれらのSBを装備した爆撃飛行隊と偵察飛行隊が編成された。
既に部隊に組み込まれたSBと、これから生産されるB-71、これらによってチェコスロヴァキア空軍は強化され、いざという時にはこれらが矢面に立って祖国の為戦う事になる、筈だった。
1938年から39年にかけて、英仏の後ろ盾もなくナチス・ドイツや併合を目論む周辺国に翻弄されたチェコスロヴァキアは、領土の30%、全人口の34%を失い、主たる工業・農業基盤をも奪われた。1939年3月には、チェコは戦闘が発生することなく保護領化され、スロヴァキアもドイツの保護国とされ独立、両国は分断された。チェコスロヴァキアは戦わずして地図上から消滅したのである。
ナチスや周辺枢軸国と相容れない考えを持つチェコ人及びスロヴァキア人航空兵は、それぞれの国を脱した。ポーランド、フランス、イギリス、そしてソ連などへと逃れた彼らは、それぞれの国の空軍に加わって戦い、そして一部は祖国へと舞い戻りドイツらと戦う事となるのだが、それは後ほど。
話を戻して。チェコを支配下に置いたドイツであるが、彼らはチェコが保有していたソ連製のSBを接収した。一部は空軍による試験に用いられた他、大半を占める32機はブルガリア空軍へと転売された。
また、ドイツは、新たなB-71の製作をアヴィア、アエロの両社に指示した。これらの機体は訓練支援機として用いるべく、新規製作に際して標的曳航装置が加えられていた。この機体はB-71Aと呼称され、76機が生産された。飛行が安定しているなど、パイロットの評価は良く、1944年3月31日時点でドイツ空軍内に57機が残存していた。(ただし、その後予備部品の不足により、9月30日には9機まで数を減らしている)
そして1940年には、爆弾倉を削除する事により後部乗員スペースを前進、また標的曳航距離を1kmまで延長させたモデルも開発されている。こちらはB-71Bと呼称され、アヴィア社とアエロ社で計35機が生産された。
計111機作られたB-71A及びB-71Bは、ドイツ軍のもとでFlak操作員訓練用の標的曳航機役のほか、連絡機や気象観測機、ソ連後方への工作員の輸送にも用いられたという。
チェコスロヴァキア空軍の近代化と強化を目して導入されたSBおよびB-71であったが、結果としてドイツを始めとする枢軸国に使われてしまうという散々な結果に終わってしまった。唯一自国機としての働きあったとすれば、残存する機体の一部が中立国や連合側への脱出に際して使用され、後の反攻への僅かながらの助けとなった事だろうか。
チェコスロヴァキアのSBとB-71については以上。
◆SNPまでのスロヴァキア空軍
次のソ連機の登場まで時間が空くので、その間を埋める為スロヴァキア空軍について、簡単にまとめておこうと思う。
ドイツの保護国―実態としては傀儡となったスロヴァキアは、ポーランド侵攻やソ連侵攻にも参加したが、機材が不足かつ旧式化していた事もあり、これらの際には主に支援程度にとどまっていた。
しかし、独ソの戦いが始まって2年が経った頃になると、ドイツによる『テコ入れ』が始まった。ドイツは105名のスロヴァキア人パイロットへの再訓練(座学や飛行教習を含む)を施した。このうちの19名の戦闘機パイロットには、くたびれた中古機ではあったがメッサーシュミット Bf109Eを装備させることで戦力の増強に努めた。彼らは第13飛行隊に配属され、この飛行隊はドイツ空軍第52戦闘航空団第II飛行隊にて、『第52戦闘航空団第13スロヴァキア中隊(13./JG52)』として東部戦線に投入された。
その後はBf109Fが加わり、さらに1943年にはG-2型やG-4型に置き換えられた。機材を更新した第13スロヴァキア中隊はスコアを重ね、43年3月には公認撃墜が50機に達した。
その一方で、パイロットの損失、また生き残ったパイロット達への疲労も深刻であった。ソ連空軍の動きは活発となり、機材も緒戦とは様変わりし、加えて米英のレンドリース機までもが現れるようになっていた。連日の作戦行動と敵の苛烈な反撃は、彼らは肉体的にも精神的にも蝕み始めていた。
これを解決すべく、交代要員として第2チームが編制され、訓練が行われていた。Bf109Eでの訓練の後、クリミア半島でBf109Gへの短期間の機種転換を受けた。
彼らは若手で構成されており、平均年齢は24歳。母国での飛行経験は最小限のものであったが、7月22日に初戦果を記録してからは着実に戦果を挙げていった。8月28日には第13スロヴァキア中隊は2000回出撃を達成。部隊の公認戦果は183機、うち26機は任務を引き継いだ第2チームによるものだった。
そんなスロヴァキア人たちも、これらの記録や戦果に浮かれていられる状況ではなかった。ソ連の猛攻によりクバンは押され、橋頭堡からの撤退を余儀なくされていた。戦局は徐々に、だが確実にソ連側へと傾きつつあった。
元々戦意も高くなく、ドイツは当初のような勢いはなく押されつつあり、またスロヴァキア飛行隊の扱いにも問題があり、関係性はあまりよくなかった。また、第2チームの士気は、先任のチームほど高いものとは言えなかったという。
そのような状況で、さらにドイツ軍は彼らをクバン橋頭保に置き去りにするという行動を取った。このような仕打ちを受けたスロヴァキア人たちは憤慨し、ついには中隊から脱走者が出る事態となった。
1943年9月9日、アントン・マトゥシェクとルドヴィット・ドブロヴォドスキーの2名のパイロットは、Fw189偵察機護衛に出撃した。会合地点に到着し護衛対象を待ったが、偵察機は一向に現れなかった。2名は基地に戻らず東へと向かい、無傷のBf109G-4を手土産にソ連領へと降り立ったのであった。
この2日後、続いてアレクサンデル・ゲリツが脱走した。彼は空戦中に被撃墜を装い戦場を離脱、単機ソ連領へと降り立った。この時彼は機体内に無線整備士のヴィンツェンツ・トカチクを乗せており、この整備士は新型の無線機FuG 17の訓練を受けていた。彼らの関係性は分からなかったが、この貴重な新型無線機の情報を手土産としたのだろう。
その後、前哨基地からの移動命令によるいくらかの不満の解消があってか、これ以上の脱走は起こらなかった。
1943年11月12日、前線を離れた彼らはついに母国へと帰り着いた。12か月の戦いで2600の出撃を数え、公認撃墜は215機に達した。また、29名のパイロットのうち、17名がエースとなっていた。
第13飛行隊がドイツ隷下で奮戦していたころ、スロヴァキアの空は米陸軍航空隊の脅威が迫っていた。1943年8月20日、これに対処すべく即応部隊が編制されたが、その主力は4機ぽっちしかない、旧式のBf109Eであった。パイロットこそ東部戦線を戦い抜いた第13飛行隊のエースで構成されていたが、対抗できる戦力ではなかった。
後に第13飛行隊の第2チームが帰国するとこれに加わった。機材の方もドイツから15機のBf109G-6を受領し、戦力は大幅に強化された。
戦力を整えた彼らは、連日米爆撃機に対し出撃を行ったのだが、この時パイロットへは反ドイツ蜂起に備えて命を大事にしておけとの指示があった。彼らは出撃こそしても、行動を起こさず、ただ炎と煙に包まれる首都を眺めるしかなかった。
これらの消極的な様子はドイツ空軍将校や周辺の市民からの非難の声が上がった。1944年6月26日の米爆撃機の編隊への攻撃では、ただ眺めるだけの臆病者たちという評判を打ち消すべく、「見せかけ」ながらも攻撃をかける作戦に出たが、これの結果は僅かな戦果と引き換えに、パイロット3名が死亡、1名が重症、貴重なBf109Gを7機失うものとなった。即応飛行隊は事実上壊滅した。
◆SNPとチェコスロヴァキア空軍
スロヴァキアの首都ブラティスラヴァの傀儡政府は、既にスロヴァキア全土を治める事が出来ない状態にあった。政府は、対パルチザンを口実にドイツの軍事的介入要求を受け入れ、ドイツ軍を国内へ呼び入れた。1944年8月29日、スロヴァキアの占領を開始したドイツ軍とスロヴァキア軍との間に最初の衝突が起きた。
これをきっかけとして、内々に進められていた傀儡政府の打倒とチェコスロヴァキア共和国の再建を目的とした『スロヴァキア民族蜂起(Slovenské národné povstanie、以下SNP)』が勃発した。スロヴァキア中部のバンスカー・ビストリツァでは、『スロヴァキア国民評議会』により「新チェコスロヴァキア共和国を求める事」と、「連合国側へ立って戦う事」が宣言された。
ドイツ軍は、カルパチア峠の防衛のため配置されていた東スロヴァキア軍団へ対し、『カルトッフェルエルンテ・ミット・プレミエ(賞金付きのジャガイモ掘り)』作戦を発動。軍団の武装解除と人員の抑留を試みた。パイロット達は武装解除から逃れるべく残存するスロヴァキア機を用いて東への逃亡を図った。貴重な飛行可能状態にある2機のBf109G-6を含む、計81機が飛び立った。彼らは国内のSNPの事を知らなかったため、全機ソ連が占領していたリヴォフ(レンベルク)に降り立った。もしも知ることが出来ていれば、彼らはこの活動に参加すべく向かった事だろう。
SNPの流れに合わせ、「連合飛行隊(Kombinovana letka)」が結成された。これは進攻するドイツ軍への攻撃のほか、地上軍の上空援護、ビラ撒き活動などを主に行っていた。当初指揮官はミクラシュ・シングロヴィチュが務めていたが、後にヴラディミール・クリシュコが引き継いだ。
連合飛行隊は東部戦線で活躍したエースを擁しており、優秀な人材は揃っていた。だがまたしても機材の方は貧しており、保有機数こそ60を超えていたが、その大半は旧式の航空機(主に練習機・連絡機・輸送機)が占めていた。唯一の戦力は僅か4機しかないB-534戦闘機と、2機のBf109E-4戦闘機のみ、またこれらは弾薬と交換部品の予備が欠乏していた。
このような有様では、たとえ連合軍に押されつつあるドイツ軍といえども、到底相手にできるものではなかった。
◆第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊とLa-5FN
そこに手を差し伸べたのはソ連であった。9月の初め、ソ連は手始めに8月末にソ連側への逃亡時に使用された2機のBf109G-6を含む数機をチェコスロヴァキアへ返還した。このG-6型2機は第13飛行隊のエースであったフランティシェク・ハノヴェツ(個人6+協同1機)とルドルフ・ポジク(撃墜9機)の乗機としてSNPの間使用された。
これに続き、9月17日にソ連から「第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊」が蜂起に加わった。これは「第128独立チェコスロヴァキア戦闘航空連隊」(以下128 OIAPと略すことにする、長いので)をベースとしており、1944年5月3日にソ連で設立されたものであった。
128 OIAPは当初チェコ人によって編成されていたが、後に2人のスロヴァキア人が加わった。この2名は第13スロヴァキア中隊から脱走したソ連側に脱走したマトゥシェクとドブロヴォドスキーであった。(経緯は「SNPまでのスロヴァキア空軍」の項に記載)
5月16日、ソ連から連隊に中古16機と新品6機、計22機のラヴォチキン La-5FN戦闘機が供与された。ラヴォチキンの戦闘機が供与されたというのは興味深いポイントで、ソ連が他国パイロットに機体を供与した例は何例かあるが、それらは全てヤコヴレフの戦闘機なのである。チェコ及びスロヴァキアのパイロットには、何故ラヴォチキンが与えられたのか。後述する活躍をみると確かにYak戦闘機より任務に適していたように感じるが、それが当初の想定通りであるのか、はたまた機体が適していたからそう運用されたのかは不明だ。
彼らは供与されたLa-5FNに習熟した後、9月10日より哨戒任務に就き活動を開始した。詳細な時期は不明だが、128 OIAPは「第1チェコスロヴァキア戦闘機連隊」へと改名されているようだ。(もしくは再編されているのかもしれない、要調査)
そして9月17日、数年の時を経て再び母国に舞い戻ったのである。彼らは最初に母国へ戻ったスロヴァキア正規部隊となり、またチェコスロヴァキアはソ連以外で唯一La-5を運用した空軍となった。
第1チェコスロヴァキア戦闘航空連隊は、イギリス王立空軍 第122、および313飛行隊長を務めたフランティシェク・ファイトルを指揮官としていた。彼らはブレズノ・ナト・フロノムとトリ・ドゥビを拠点として、活動を開始した。
20機のLa-5FN達は、返還されたBf109G-6を除くとB-534やBf109E-4しかなかった連合飛行隊とって、非常に心強い戦力となった。彼らは進攻してくるドイツ軍機や枢軸国機から地上軍を守るために奮闘。10月12日と18日の活躍はめざましく、以下のような撃墜を記録している。
チェコスロヴァキアのLa-5FNは、最終的に確実13機+不確実3機を記録した。また、空戦での損失は1機もなかった。
チェコスロヴァキアのLa-5FNは空戦だけでなく、対地攻撃任務にも多く用いられた。
La-5はLaGG-3と同様にDZ-40(露:ДЗ-40)ラックを用いて翼下に爆弾を搭載することが可能であった。DZ-40ラックは重量100kgのFAB-100フガス爆弾まで搭載が可能であったが、『Lavochkin Fighters of the Second World War』によれば、彼らは当初機体と共に供与されたソ連製の25kgおよび50kg爆弾を使用したという。恐らく前者はAO-25、後者はFAB-50と予想される。[独自研究]
また、ソ連から受け取った爆弾類(25, 50kg爆弾)が底をつくと、彼らはラックを改造し、チェコスロヴァキアが保有する50kg爆弾(自国製?詳細不明)を使用できるようにした。
地上支援任務での戦果は、トラック77両、対空砲(Flak)3ユニット、機関車3両、戦車2両となっている。
たった20機でこれだけの戦果を挙げたチェコスロヴァキアのLa-5FNだが、損害も小さくはなかった。空戦での損失こそなかったが、アクシデントや地上からの反撃等によって3名のパイロットと保有機の半分である計10機を失った。またパイロットは1名重症を負い、戦中の復帰は叶わなかった。
◆SNPの結末とその後
結局のところ、SNPは成功しなかった。ソ連はスロヴァキア-ポーランド国境にある峠の制圧が出来ず、その間に反乱軍はドイツ軍に追い詰められていった。戦力不足、ソ連の作戦失敗、SNP中の各組織の主導権争い、その他にも様々な要因が重なった結果による失敗であった。
SNPに加わったパイロット達が拠点としていたトリ・ドゥビにも、わずか数kmの所までドイツ軍が迫っていた。彼らは10月25日に飛行不可な機体を破壊し、拠点を放棄。残存機は各々ソ連軍前線までの逃亡を試みた。すべての機体が国外に逃れられた訳ではなく、一部は撃墜されている。
10月27日、蜂起の中心地であったバンスカー・ビストリツァが陥落すると、スロヴァキア内の組織だった抵抗は終わった。戦う意思を持つものは、ソ連が到着するまでの間、活発なゲリラ戦を展開し抵抗をし続けていた。
SNPから数か月後の1945年1月25日、ソ連監督のもとで新たな部隊が発足した。名を「第1チェコスロヴァキア混成航空師団」といい、これは3個航空連隊と諸支援部隊からなる、SNPに加わった部隊よりもさらに規模の大きいものであった。
パイロット達はポーランドのカトヴィーツェで訓練を終えると、以下のように編成された。
上記のとおり、第3地上攻撃連隊はイリューシンのIl-2襲撃機を装備していた。戦中にチェコスロヴァキアが装備した3機目のソ連軍用機がこの機体であった。
混成航空師団のうち、第1戦闘航空連隊と第3襲撃航空連隊は、4月12日から13日にかけて、シュレージエンの前線から20kmほどのポレンバ飛行場に移動した。翌日14日には、16機のIl-2と護衛の18機のLa-5FNによる最初の出撃が行われた。目標はポーランドとチェコの国境、オルザ近辺のドイツ地上軍であった。
彼らは5月2日まで活発に飛び回り、Il-2はドイツ地上軍に苛烈な攻撃をかけ続けた。
一方護衛のLa-5FNの方はというと、万全の体制でドイツ空軍の攻撃に備えていたものの、最後まで1機として会敵することは無く終わりを迎えた。また、第2戦闘航空連隊の方は戦闘に加わる事無く終戦を迎えており、こちらも戦果は無い。チェコスロヴァキアのラヴォチキン戦闘機の主な活躍は、SNPの間だけであった。
チェコスロヴァキアのソ連機については以上である。
えーと……実はPe-2も運用されたらしいのですが、45年4月と末期も末期な頃であり、まとまった運用がなされたようにも見えない(軽く見た感じの感想なので実際どうかは……)ので、今回はオミットしました。見つけられていないだけで、他にもあったりするかもしれませんね……。
もし今後何か話が拾えたら、後日追加するかもしれません。
というわけで、今回はここまで。
最後にメモがてら、調査中に出てきた「戦後のチェコスロヴァキア名称=開発国名称対応一覧」を並べて終わりとしましょう。
【他国に渡ったソ連機】シリーズ
第1回:フィンランドのLaGG-3
第2回:ルーマニアのI-16とMiG-3
第3回:チェコスロヴァキアのソ連機 (本記事)
<参考リスト>
=書籍=
■『弱小空軍の戦い方』飯山幸伸, 光人社NF文庫, (2007)
■『第二次大戦のスロヴァキアとブルガリアのエース』イジー・ライリヒ 他, 大日本絵画, (2005)
■『Lavochkin Fighters of the Second World War (Kindle版)』Jason Nicholas Moore, Fonthill Media, (2016)
=Web=
◆B-71 (露)
http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/bombardirovshhiki-2/bombard-1920-e-1940-e-gody/skorostnoj-bombardirovshhik-sb/srednij-bombardirovshhik-avia-v-71/
◆Аvia В.71 в Люфтваффе |Airwar.ru (露)
http://www.airwar.ru/history/av2ww/axis/b71/b71_luft.html
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