更新履歴 (内容に変化ないものは除く)
1930年代、戦闘機が複葉の翼を捨て単葉に移行し始めた頃。戦闘機の高速化による離着陸時の危険性向上という問題に対し、各国では様々な手法を模索していた。
戦闘機にとって、速度とは最も重要な性能の一つである。各国の戦闘機は、少しでも速く飛べるよう、強力なエンジンを搭載し、翼面荷重を高めていった。30年代半ばには500km/hを超えた。
これに際して、一つの問題が浮上していった。それは冒頭にも述べた離着陸時の危険性の向上である。高速になればなるほど、戦闘機の離着陸速度……特に着陸速度が高まるのは危険であった。
また、これと同時に滑走距離が伸びていくことも問題であった。長大な整地された滑走路を設けるには、手間と時間がかかる。特に前線ではちょっとした平らな草地を飛行場にする必要があるので、これも問題となっていた。
参考までに、30年代から40年代頭までのソ連主力戦闘機を何機かピックアップし、滑走距離と着陸速度を並べてみた。それぞれそれなりのペースで距離と速度が伸びていっているのが分かるだろう。
こうした問題に対し、各国技術者は「フラップ」や「スラット」などの高揚力装置を備えることで対応を試みていたが、さらに大きな装置・翼構造をもって解決しようという者もいた。
例を挙げると、フランスではマコーニン(亡命ロシア人技術者)が『テレスコーピングウィング』と呼ばれる伸縮する主翼を持った単葉機を開発していたし、イギリスでも離陸時は複葉機だが離陸後に上翼を投棄する(!) 『Bi-mono』というものもあった。
さて、それではソ連ではどんな案が出ていたか?というのを紹介してみるのが、今回の記事である。
可変式の翼を以ってこの問題の解決に当たろうとした2つの計画について見ていこう。
【IS:複単可変葉戦闘機計画】
30年代の終わり、ウラジーミル・シェフチェンコは、離着陸速の向上と滑走距離の延長という問題に対し、「離着陸の時だけ複葉機とし、空中に居る時は単葉機とする」という案を思いついた。それがIstrebitel Skladnoy―折り畳み翼戦闘機『IS』 (露:ИС)である。(注1)
この独創的な案は各方面から興味を引き、世界的に前例がないという事もあり、支援者も現れ製作に移ることとなった。
注1:Airwar.ruによれば、このISの略は現存する当時の文書上には確認出来ず、60年代以降にしか見られないという。後世に後付けされた可能性がある。
◆IS-1
シェフチェンコをリーダーとしたチームは、シュベツォフのM-63エンジン (離昇1,000hp)を動力源とする、全金属製の可変葉戦闘機の設計に取り掛かった。
外観はポリカルポフの複葉戦闘機I-153によく似たもので、特徴的なガル翼とカウルシャッターを有していた。機体構造は金属製で、胴体後部は羽布張りと、同機を踏襲したものとなっていた。まずは実績のある機体をもとに、新たな要素を試そうという考えだったのだろうか。
武装はソ連機としては珍しく、胴体・機首にはなく、上翼付け根に左右2挺ずつShKAS 7.62mm機銃が装備された。手持ちの資料には明記されていなかったものの、位置としてはプロペラ圏内であるので、これらはプロペラ同調式であったと思われる。
さて、ISで最も特徴的なのは、付け根と翼の半ばに折りたためる機構を持った下翼である。この下翼は、内側 (翼付け根側)と外側 (翼端側)に分かれており、それぞれ内側は胴体側面に、外側は上翼下面付け根付近の窪みに密着することで、単葉機へと「変身」するわけだ。単葉形態のIS-1は、ポーランドのPZL P.11のようなスタイルとなる。
一つ注意が必要なのは、主脚は下翼の折り畳みと共に胴体側面に納められるという事だ。この折り畳み機構と主脚の格納はそれぞれ独立していないため、単葉形態から下翼だけ展開するという事は出来ないし、また複葉形態で主脚だけ格納をするという事も出来ない。なので「空戦中に複葉形態になって急旋回を……」という事も出来ないのである。 (そもそも高速飛行時には展開出来ないか、機構が破損してしまう恐れがあるのではないだろうか)
IS-1のその他の特徴としては、重量が同世代の機体と比べると軽量であることが挙げられていたりする。空虚重量は僅か1,400kgで、離陸重量でも2,300kgであるので、確かに同時期のYak-7の空虚重量は2,500kg、離陸重量は3,000kg前後である。他の機体でもおおよそ±100〜200kgであるので、これだけ見ると確かに40年代初めの戦闘機としてはかなり軽量な部類と言えよう。
ただしこれは機体規模がI-153やI-16と変わらない小型な機体であるという事を考えれば、当然の事だろうと言える。なおI-153およびI-16とは、同じエンジンかつ同じ機体規模ながら、重量は数百kg重い。
IS-1はテストで最高速度453km/h、実用上昇限度は8,300m、高度5,000mまで8.2分とされた。意外なことにテストの間、この特殊な下翼の折り畳み機構は不具合なく正常に動作したという。
最高速度も上昇性能も、共にあまり目を引くような数値ではない。上昇性能の方は先述の重量が響いているのではないだろうか。
ともあれIS-1はそのまま採用という事とはならず、計画は後述のIS-2に引き継がれた。
◆IS-2
IS-2はIS-1をより洗練し、当時最新のトレンドを盛り込んだような機体であった。
まずはエンジンをM-63から、空冷星形14気筒のツマンスキー M-88 (離昇1,100hp)へ換装。I-153と似たシャッター付きのカウルも、1940年代のソ連機としては標準的な前面開口部が窄まった―後のLa−5の様なタイプのカウルに変更された。尾輪も格納式となり、より洗練されたものとなった。IS-1では垂直尾翼から水平尾翼に斜めにワイヤーが張られていたが、それも削除されている。
武装も強化されており、IS-1は4挺のShKASで構成されていたが、IS-2ではそのうちの2挺がBS 12.7mm機銃に置き換えられていた。
機首下部に設けられた冷却器は、他ではあまり見られないユニークな形状をしているが、これについては特に情報を得ることは出来なかった。
性能はIS-1よりさらに向上したが、独ソの戦いが始まったことで4回の試験飛行しか行う事が出来ず、プロジェクト自体も縮小、最終的に開発中止が決定された。 同時期に開発が進んでいたYak,MiG,LaGGに比べ、離着陸性能以外に勝るところが無い事も大きな要因だろう。
IS-1およびIS-2はこうして開発が終わってしまったが、さらなる計画が進んでいた。
◆IS-3とIS-4
IS-2は独ソの戦いで余裕が無い為に開発中止となったが、彼らはこれに続くIS-3とIS-4という2つの計画に着手していた……というところは分かっているらしい。だが、IS-3については何も情報がなく詳細は不明である(ドキュメントの類が現存していない?)。
一方で、IS-4はいくらか情報が残されているようだ。下翼を折りたたむ戦闘機というコンセプトに変わりは無いが、いくらか変更が盛り込まれていた。
まず、IS-1とIS-2は尾輪式であったが、IS-4は米ベル社のP-39やXP-77の様な前輪式となっていた。下翼の引き上げ機構なども改善されている。風防も密閉式となり、主脚のカバーも拡大された。搭載エンジンも空冷でなく液冷のM-120というエンジンを予定していたようである。(後に供給の見込みが立たないので、ミクーリンのAM-37に切り替えられた)
時期は不明だがさらに変更を加え、エンジンを空冷のシュヴェツォフ M-71F (露:М-71Ф)エンジンに変更し、上翼にスラットを取り付けたりなども検討していたようだ。液冷直列12気筒から空冷星形18気筒エンジンへの変更は大幅な設計変更が必要と思われるが、図面等も見当たらずどうしたものになるのかも不明だ。
なお結局IS-4は実機が作られる事はなく、最終的に、複葉から単葉に変身するユニークな計画機―『IS』は採用に至ることはなかった。
ひとまずISについては以上である。
【閑話:M-120エンジンについて】
IS-4の項で少し触れたM-120エンジンであるが、どうやらWeb上に日本語では情報が殆ど無いようなので、いくらか書いておこう。
M-120はクリーモフの開発していたエンジンの一つで、これはM-103エンジンのシリンダーブロックを3つを120°間隔で逆Yの字に組み合わせた、6x3の18気筒エンジンである。出力は1,800hpを予定していた。
このエンジンの搭載を検討していた機体としては、ツポレフ Tu-2の原型機である≪103≫、イリューシン DB-4、ベリャーエフ OI-2、そしてミャスィーシチェフ DVB-120などがあった。
[バリエーション]
・M-120NV:燃料直噴射式のモデル。(搭載検討機が見つからず、情報求む)
・M-120TK:ターボ過給機付きのモデル。搭載検討機:DVB-120・DB-4
・M-120UV:P-39の様なミッドシップ配置用の延長軸モデル。搭載検討機:OI-2
M-120は数年にわたり開発が続けられたが、出力と信頼を一定のレベルまで高められず、リソースに余裕のない1942年に開発が中止となった。
搭載を予定・検討していた機体は、同時期に進められていた高出力エンジンAM-37に切り替えられるなどしているが、こちらも結局採用には至らなかった。
【RK:伸縮翼機計画】
「離着陸時と巡行中で翼面積を変化させる」というアイディアの実現を試みた計画はもう一つある。それは「離着陸時は伸縮可能な構造を展開し、離陸後はそれを格納して小型な翼形状にすることで、翼面積を増減させる」というアイディアで、グリゴリー・バクシャエフによって考案された。"Раздвижное Крыло" (Razdvizhnoye Krylo, =拡張翼, もしくは拡大翼と訳すのだろうか)と名付けられ、その頭文字からRK (露:РК)と呼ばれた。
◆RK (LIG-7)
バクシャエフはまず自分のアイディアを立証するため、RKもしくはLIG-7 (露:ЛИГ-7)と呼ばれる実験機を作り、1937年8月に初飛行させることに成功した。
機体はM-11エンジン (離昇100hp)を搭載した単葉機で、パイロットとオブザーバー用の複座のコクピットを有していた。
主翼面積の増減を実現する為の主翼は非常に特異な形状をしており、翼付け根付近から翼半ばあたりまでは翼弦が広く、その先は翼端まで極端に狭弦な細長いものとなっていた。文字で説明するよりも、実際に写真を見る方が理解が早いだろう。
この翼弦が広い部位というのは、実は可動部位であり、50cm間隔で構成されたカバーが『マトリョーシカ』のごとく入れ子状に重なり合って格納されていき、翼面積を減少させていた。逆に、離着陸の際には横にスライドして展開されていくことで、翼面積を拡大させるわけだ。
この機構は助手席のクランクで操作することが出来、展開するには30~40秒、格納するには25~30秒ほどを要したという。ポリカルポフのI-16の様な、手動で展開するタイプの主脚と同じような感覚であろうか。
この翼の格納時:展開時の面積比は、[1:1.44]ほど、おおよそ1.5倍になると考えてよいだろう。
意外にもこの実験機は予想より優れた性能を発揮した。実用的であるかはともかく、実際に有効であることを示したことや、この計画がスターリンの目に留まったこともあり、このアイデアを取り入れた戦闘機の開発にシフトしていった。
◆RK-I (RK-800)
RKという実験機で実証して見せたバクシャエフは、拡大翼のアイデアを取り入れた戦闘機、RK-I (露:РК-И)の設計に取り掛かった。
彼の考えた拡大翼戦闘機は、クリーモフ M-105を搭載し、翼の大部分を格納することが出来れば、最高速度800km/h (!)の高速戦闘機を実現できるだろうとしていた。
1938年10月に彼は上記案の設計を提出し、TsAGIと空軍に承認を受けた。翌年1月には5分の1サイズの模型がTsAGIの風洞設備で試験が行われた。
RK-IはRKをかなり先鋭化させた設計で、RKも他と比べ極端に細い翼を有していたが、こちらはさらに細い翼を前後に並べたものとしている。いわゆる「タンデム翼」という形態であった。
また、拡大翼部も範囲が広くなり、2つの翼の間に翼膜の如く展開させるものとしていた。この翼の格納時:展開時の面積比が[1:2.35]であることからも、かなり挑戦的な設計であることが分かるだろう。
1940年の初頭には、RK-Iの試作機がおおよそ出来上がっていたが、ある横槍が入ったことで、完成が遠のいてしまう。それはスターリンによるもので、この機に強い関心を持ったために、元々想定していたM-105より強力なエンジン『M-106』を搭載する事を要求したのである。当時このエンジンは開発中であり、試作機に回す余裕もない状態であった。
通常であれば、ひとまずM-105を搭載して試験を行うべきところであるが、スターリンの要求ともなれば誰もそのような事を出来る筈もなかった。止む無く設計チームは1/1スケールのモックアップを作成し、各種試験を行うこととした。これは武装やラジエーターの吸気口こそ再現されていなかったが、固定式の主脚、キャノピー、機首などを備えたものであった。
TsAGIの風洞で試験が行われ、結果として拡大翼のセクション間のシールが不完全であることを指摘された。とはいえ、多くの要素は好意的評価が得られ、M-106を搭載すれば780km/hを達成できるであろうと結論づけられた。
あとはM-106を待つ状態となったRK-Iであるが、1941年6月に独ソ開戦となると、プロジェクトは中止となり、拡大翼というアイデアは実現することなく終わった。
試験では一定の効果を発揮しつつも、ISと同じくRKも実用化することなく終わってしまった。
30-40年代における可変翼機の終焉
結局のところ、ソビエトにおいて30-40年代に生み出された可変翼機達は、1機として採用に至ることは無かった。もっともほんの少し前まで、主脚を格納するかどうかと悩んでいた事を考えれば、主翼自体を変形させるというのはいささか早すぎたと言う他ないだろう。
また、ISにしてもRKにしても、どちらもその後の発展性に乏しいであろうことは想像に難くない。ISは胴体前部という貴重なスペースを下翼と主脚の格納に取られてしまっているし、RKは翼が極端に薄く細いために翼内スペースの活用ができない。
これら機内スペースの活用というのは、重心位置の関係で機体内スペースを全て自由に使えるという訳でもない当時の機体において、非常に重要である。40年代にもなると、どの戦闘機も武装を翼に入れれば燃料は胴体に、もしくはその逆にしたりなどして、重心やスペースを考えて配置している。
ISならともかく、RKの方は燃料・武装・主脚などを全て胴体内に納めている訳なので、かなり余裕のない状態であることだろう。もし燃料を増やす、もしくは武装を強化したいという時、果たしてそれが出来るのであろうか。オーソドックスな形態の機体ですら悩まされているこの問題は、これらの機体にとってはさらに大きな障害になるのではないかと思う。
長々とした個人的な意見はここまでとして、今回のソ連のレシプロ可変翼機については以上である。
60年代ごろに世に出た『可変翼機』たちについてはさっぱり分からんですし、詳しい本もこの世にいくらでもあるでしょう。そちらをあたってください。終わり!
<参考リスト>
=書籍=
■SOVIET COMBAT AIRCRAFT of the Second World War, (1998)
P.84
■Soviet X-Planes, Midland Publishing, (2000)
P.140-142, 146-147
=Web=
◆ИС-1(2)|Уголок Неба (露)
http://www.airwar.ru/enc/fww2/is1.html
◆РК(ЛИГ-7)|Уголок Неба (露)
http://www.airwar.ru/enc/xplane/rk.html
◆РК-И|Уголок Неба (露)
http://www.airwar.ru/enc/xplane/rki.html
[閑話:M-120エンジンについて]
◆Поршневой авиационный двигатель М-120. (露:航空エンジンM-120エンジン)
http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/dvigateli-i-vooruzhenie/aviamotorostroenie/aviamotory-sssr/porshnevye-i-dizelnye/porshnevoj-aviatsionnyj-dvigatel-m-120/
◆ベリエフ OI-2 ~ツイン・エアラコブラスキー~|TeamBtrb
http://teambtrb.com/2017/08/19/oi-2/
◆Дальний высотный бомбардировщик ДВБ-102. (露:高高度爆撃機 DVB-120)
http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/bombardirovshhiki-2/bombard-1920-e-1940-e-gody/dalnij-vysotnyj-bombardirovshhik-dvb-102/
◆Дальний бомбардировщик ДБ-4. (露:長距離爆撃機 DB-4)
http://xn--80aafy5bs.xn--p1ai/aviamuseum/aviatsiya/sssr/bombardirovshhiki-2/bombard-1920-e-1940-e-gody/dalnij-bombardirovshhik-db-4/
コメントをお書きください